『噂の娘』金井美恵子【5】


1/4ほど読み終えたところでしょうか。でも、未だ、主人公の少女は熱が下らず、布団の中に横になっているようです。この作品で、会話や記憶や物語の断片がごっちゃになって出てくるのは、少女が布団の中で朦朧としながらめぐらせる意識を描いているということなのかもしれません。


つづきです。
目を覚ました少女はおしっこがしたくなり、モナミ美容院のマダムにおんぶされて便所に連れていってもらいます。あっさり書いちゃえばそれだけのことなんですが、話はマダムの部屋にある電気スタンドへと逸れてゆき、そこから母親の持っていた日傘を連想し、母親の思い出へと横滑りしてゆきます。

淡いピンクの透きとおるように薄いジョーゼットで、テントのようにピンと張りつめた布地の半円球を支える金属の骨は八本、縫いあわされて傘の骨に取りつけてある布地は八つの部分にわかれていて、傘の内側の裏地は髪を結ぶ黄色いリボンやアルバムの表紙に張られているのと同じ木目模様が浮かびあがった織り地の少しクリームがかったモアレで、開いたパラソルを内側から見ると、半球状の小さな丸天井はジョーゼットのピンクが透けて、ちょうど、たとえば、桜か杏かリンゴの花の満開の木の下に立った時のような明かるさに包まれるのだが、八枚の布が縫いあわせてあるパラソルの一枚ずつの布の端はなめらかにカーヴしていて、表の方に、ジョーゼット細工の小さなバラの花とツボミが縫いつけてあるのが、細いピンクのフリルの縁飾りのように見え、なめらかにカーヴした八つの白いモアレの縁から、丸天井のように湾曲する頂点に向って、絹糸で細く縫いとりされたバラとフリージアワスレナグサとスミレが咲きこぼれ、丸天井の頂点の近くを二匹の白い蝶々が飛んでいて、それを見るたびに感嘆の溜息がもれ、母はエプロンをかけたまま肩にパラソルの柄をのせ、姿見のカヴァーを外して鏡にパラソルをさした自分を映してみるのだが、くすっ、と笑って姿見のカヴァーはすぐに元に戻され、この、きれいなパラソルをさして外を歩いたことは一度もないのだと、言う。

どうですか、このしつこい描写。思い出のパラソルを、うっとりと愛でているかのようです。でも、素材や色や形が細部までみっちり描かれているのに、どこか夢を見ているような不思議な感覚がある。
これは、同じ言葉が何度もくり返されるせいじゃないかと思います。「ピンク」「ジョーゼット」「八」「丸天井」などなど、針飛びのような単語のリフレインが、文章と文章をねばーっとくっつけるんですよ。そのため、読んでいるとまるでひとかたまりのピンクのモアレの中にいるような、ふわーっとした気持ちになる。
もうちょっと続けましょう。

北京に持っていかなかったから残っている、パラソルを買ったのは銀座の輸入品のきれいな品物を売っているお店で、戦前の、十五年に、七月七日から、輸入品や贅沢な高級品は作ったり売ったりしてはいけないという法律が出来て、もうお店で品物が売れなくなるのなら、その前に手持ちの品物を売ってしまおうというので、いろんなお店で大安売りがあって、おとうさんになる前のおとうさんが買ってくれたのだけど、あたしは、こんな、馬車に乗った「椿姫」かどこぞの公女様がパリの公園か大通りをドライヴする時にでもさすような豪華なパラソルは、こんな御時世でなくても、派手すぎるし、とってもきれいだけど、さすことはない、と言ったのだけど、おとうさんはお給料が出たばかりで、今買っとかないと、こんな贅沢品、全部世の中から消えちゃうんだから、家の中で、さしてるところをぼくに見せてくれたらいいって、大安売りの値段だったけど、お給料半分以上はたいて、買ってくれちゃった、馬鹿みたい、その日は家に帰ってから、一日中、開いたパラソルをお部屋に飾って眺めてた、あたしのかあさんは、あんたが結婚する人は、経済観念がまったくない人だってあきれて、どうせ買ってくれるなら、これから必要になるんだから、外国製の木綿のシーツとか純毛の毛布とか、スコッチ毛糸とかコートの生地とか、そういうものにしておけばいいのにさ、と言ったもんだけど、と歌うように調子をつけて語る。

母親が語る思い出話を回想しているという二重の過去が、例によって会話文の「」なしに綴られています。最後の、「と歌うように調子をつけて語る」というところまで読んで、ようやくその構造がわかるというような文体。こういうところが、金井美恵子のややこしさです。
まあそれはともかく、これまで正体がよくわからなかった父親に、ここで初めてセリフらしきものが出てきて、わずかですが輪郭が与えられます。「家の中で、さしてるところをぼくに見せてくれたらいい」って、ロマンチックじゃないですか。貧しくて若い恋人たちの、初々しさみたいなものが伝わってきます。
でもこれ、回想だからいいんじゃないかな。「あの頃は若くて愚かだったわねえ」と、幸せそうに語ってる感じがいいんですよ。しかも回想している母親を回想しているという二重の距離感が、映画のワンシーンを眺めているようなお伽話っぽさを与えています。僕には、これもまた、ある種、夢を見ているようなシーンに思えます。
夢ということで言うと、この作品が基本的に現在形で語られている、というのもポイントかもしれません。母親を回想しているのであれば、「と歌うように調子をつけて語った」と過去形で書くべきところなんですが、金井美恵子はそうしないんですよ。そのせいで、時制が渾沌としてくる。まるですべてが、熱を出した少女の脳内で混じり合ってしまったかのようです。

レモンの果汁の色に似た明かるく淡い金髪は、白すぎて青ざめているように見えるおかあさまの顔を包みこみ、薄いピンクのジョーゼットのパラソル越しに差す陽の光が、柔らかな薄布に液体のように漉されてゆらゆらと顔にあたるので、いつもは、病人のように青ざめている肌がバラ色に輝き、

これは、例のメアリが出てくるお話の一部。でも、ここだけ読むと、まるでさっき出てきたパラソルのことを書いているように見えます。さらに、メアリが頭が痛くて寝ているといった記述があったりして、メアリの物語がモナミ美容院で寝ている少女と重なって見えてくる。物語内物語がリンクしていく、っていうのは言い過ぎでしょうね。むしろ、これも少女の脳内で境界が溶け合っちゃってるということじゃないかと。
このメアリの物語でも、おかあさまの髪型や着ているものが、これでもかというくらい微に入り細を穿つように描写されています。この細かさはモナミ美容院の娘たちのこんな会話にもうかがえます。

そんなにすぐに、お友達が出来るだろうか、と、手拭いほどの長さに切った晒し木綿の端をドロンワークで三つ折りにかがっている長女が溜息をつきながら言い、その晒し木綿は何にするのか、と訊くと、この娘(こ)が結婚する時に持って行くもので、お便所用の手拭いにするのだ、と答え、じいさんばあさんの約(つま)しい暮しならば、お便所の手拭いは、御年賀にもらう、ダルマや藤の花柄の安っぽい、炭屋や米屋や魚屋の名入りの物でもいいだろうけど、ロマンチックな甘い新婚家庭のお便所にそういう手拭いがぶらさがっているのでは、だいなしで、お便所は、そもそもロマンチックな場所とは言えないけれど、だからこそ、ちょっと手のこんだ美しくて見苦しくないものを用意するのだ、台所というのも同じようなもので、と説明すると、ぴたっと納得のいった形に描けない眉墨をコールドクリームで拭き取っていた次女が、口から入れる物を作る所と口から入れた物を出す場所が、生活の基本なのに、そこがロマンチックじゃないって言い方は、いかにもオールド・ミス的な考え方だ、と意地悪を言うのを、横糸を五ミリ程抜き取った晒しの端をドロンワークでかがっている長女は完全に黙殺して、台所のふきんも、手拭いを二つに切って使うのや、荒物屋で売っている、布地いっぱいに斜めに、「おふきん」と染めてあるようなのは泥臭いし、美しくないから、ふきんの長さに切った晒しの端にドロンワークをして、一目で台所のふきんだとわかるように、やかんかフライパンの図案をストレート・ステッチで刺繍すると、とても洒落てるでしょ、と言うので、頷くと、うつむいたまま考え込むように、じっとしていた末の娘が、あたし、この手拭いに頭文字を刺繍する、と、思いつめたような堅い声で言う。

面白い、面白い。「ドロンワーク」ってのがよくわからなかったんですが、調べてみたら刺繍のことのようです。こういう手芸用語がいっぱい出てくるんで、僕なんかはピンとこない部分も多々ありますが、それでもそういうものにこだわっていることはわかるわけで、それが、ちくちくと織り上げたようなこの息の長い文体によく似合ってるように思います。何層にもなってたり、行ったり来たりしたり、まるで縫い物のような文体というか。そう言えば、テクストの語源は「テクスチャー」じゃなかったっけ?
それにしても、たかが手拭いされど手拭い。手拭いだけの話でやけに盛り上がる女子語り。こういうささやかなところに宿る美意識が素晴らしいです。「ちょっと手のこんだ美しくて見苦しくないもの」というあたり、生活感があっていいですね。「やかんかフライパンの図案」というのも、今の目から見るとちょいレトロでキュート。花森安治の「暮しの手帖」のデザインを連想させます。昔、実家にあったんですよ、「暮しの手帖」。
一方、唯一の男子、少女の弟はというと、「病気でパパが死ぬと、ぼくもおねえちゃんも、みなしごになるんだね」なんて、子供の無邪気さでとんでもないことを言ったりします。

もし仮りに、仮りにだけれど、とうさんが死んだとしても――そんなことは、ないけれど――あたしたちには、かあさんがいるからみなしごになるわけじゃないし、(中略)かあさんもとうさんも、あたしたちを他所(よそ)にやったりはしないのだから、この家の子になるわけがない、と言うと、弟は、ならいいんだけど、と溜息を吐き、すごーく、すごーく、つまんない、すごーく、つまんなくて、何していいんだか、わからない、と言いながら、うつ伏せになっていた体をごろりと回転させ、ごろごろと体を何回転もさせて部屋の反対側の壁のところまで転って行く。

子供だからとは言え、女子に比べて、男子のこのしょうもなさ。でもわかるなあ。最初はよその家が物珍しいしちやほやされるもんだから楽しいんだけど、じきに飽きてきちゃう。自分の家なら、「こういうときには○○をしよう」っていうのがあるんだけど、よその家だとそういうわけにもいかなくって、「何していいんだか、わからない」。手拭いだけでお喋りに花が咲くようにはいかないんですよ、男子は。


というところで、今日はここ(P127)まで。それにしても、少女の熱はいつ下るんでしょうね。