『噂の娘』金井美恵子【4】


お盆も過ぎ、今日はわりと涼しいんですが、『噂の娘』の中ではまだまだ夏。金井美恵子の息の長い文章を読んでいると、暑さにとろとろと溶けていくような気分になります。


では、つづき。

おそろしく暑い朝、あまりの暑さに腹を立てて不機嫌に眼がさめると、いつもと様子がちがっていて――第一、いつもだったらインド人の乳母がピンクの寒冷紗の蚊屋をそっと持ち上げて軽く体を揺って、おじょうさまお目ざめの時間でございますよ、と、うやうやしく告げるはずなのに――いつもは家中のあちこちにいて、御主人一家の御用をうけたまわる為に控えている召使いたちの姿も見えず、汗をかいて濡れた薄いローン地のネグリジェは気持悪く肌にはりつくし、一度もほめられたことのないぐにゃぐにゃした髮はもつれて汗ばんだ首や顔にうっとうしくまつわるし、ベッドからいやいや起きあがって、無礼な召使いや乳母をしかりつけてやろうと、不機嫌どころか無性に腹を立てながらメアリが家の中を歩いていると、白いターバンを巻いた召使いたちは、いつもの褐色とは違って灰色のおびえた顔をして、メアリの方を見もしないで、こそこそと足早に逃げるように歩き去り、風がまったくないものだから窓は開け放してあるのにむせかえるような熱気が家の中にはこもっていて、枯れて甘酸っぱいすえた臭いの混るジャスミンや紅茶の葉のにおい、乳母が眠る前に薫いた強い花の香りのするお香の残り香や食物や植物の腐敗したにおいが、あたりに充満しているものだから息苦しくなって庭へ出る。

え、「インド人の乳母」? 突如挿入される、謎の展開です。メアリって誰ですか? どう見ても、これは日本の話じゃないですね。イギリスの植民地だったインドが舞台でしょうか? よくわかりません。わかりませんが、熱帯性のむせかえるような暑さを感じます。特に、後半の匂いの描写。濃い匂いがいくつも混じり合って、べたーっと肌にまとわりつくような暑苦しさ。
このあと何事もなかったかのように、物語はまたモナミ美容室に戻るんですが、今度は長いお喋りのようなものが7ページに渡って続きます。

だから、あの人の髪を結いあげ――長いそれこそ緑がかった艶のある質のいい素直で豊かな髮で、解くと腰のあたりまではないけれど、それでも背中の貝殻骨は充分に隠れる長さで、質のいい髮というのは見ただけでももちろんわかるものだけれど、職業柄、さらにそれを実感するのが髮を洗ったりとかしたり結ったりして指で触れる時で、艶々して見えたのが、髮の生れつきの艶でなく、ヘア・クリームや髪油を塗(つ)けてごまかしていたのだということが、すぐにばれてしまうけれど、本当に性(しょう)のいい黒髪というものは、髮の芯から違うから、芯のところから艶が滲み出していて、シャンプーを泡立てて洗っていても、キシキシしたりゴワゴワしたりせず、なめらかに指と指の間をとおり、つるつるして柔らかい新ワカメを洗っているというか、絹のかせ糸に触ってでもいるような感じがするのが性のいい髮というもので、あの人は、そういう髮をしていた――細からず太からず、分量も充分あるからかもじを入れることもないかな、と思ったのだけれど、全体にヴォリュームを持たせたポンパドールにしようと思ったので――このスタイルは、中高(なかだか)気味の細面の人がやると、こう格が上ったようになって上品だわね、丸顔や四角じゃ駄目、全体が、とんと土偶になっっちゃうものね――かもじを入れて、パーマをかけるって言うんだけど、それはせっかくのいいお髮(ぐし)がもったいないから――ほんとにさ――おやめなさいって、あたし言ったの、パーマもね、うーん、デボラ・カーみたいなショートなら似合うかなあ、でも、今さらそんなこと言ったって、あの人は情状酌量が付いたとしてもやっぱり刑務所に入ることになるんだろうから無駄だけど、

まだまだ続くんですが、このへんで。喋ってるのは、モナミ美容院のマダムかな。話題は、美容室で髮を整えたあと夫の愛人を包丁で刺したタドコロさんについて。
「柔らかい新ワカメを洗っている」とか、「とんと土偶になっっちゃう」とか、髮質や髪型に対するやけに具体的なコメントが面白い。美容室ならではですね。ただし、内容的には、話はほとんど進んでいないというか、タドコロさんの髮を結ったということしか言っていません。あとは全部、脱線というか、余談。
でも、お喋りってのはこういうもんだよね、という気がします。喋ってる間にいろんなことを思いつき、それが話にどんどん入ってくる。このあとも、温泉場で若き日の鶴田浩二に会ったことがある、なんていう話にまで脱線しつつ、お喋りは続きます。
饒舌体の文章は、基本的に僕は好きなんですが、これはとても女性的な語り口ですね。脱線の仕方がなめらかで、読んでいてとても心地がいい。そのくせ、「やっぱり刑務所に入ることになるんだろうから無駄だけど」なんてことをサラッと言っちゃったり。ちなみに、男性の饒舌体はもっとギクシャクしてるし、わりと観念的というか「俺が俺が感」があるような気がします。
さて、先ほどのインドと思しき場面ですが、若い士官が「おくさまは二週間前に山の方へおいでになってなくてはいけなかったのです」と口にしたシーンのあとに、ふいにそのお話についてのコメントや、母親がそれを読み聞かせているシーンが出てきます。

おくさまは二週間前に山の方へおいでになってなくてはいけなかったのです、という言い方は、小さな声で口にしてみると、とても言いにくく舌がもつれるような気がするし、舌がもつれるというよりも、おいでになってなくてはいけなかった、とた行の音が鋭く重なるのが耳障りで、繰りかえして口にしていると、茶の間の柱にかかっている時計の振子が規則的に振れ動く時にたてる音と重なって、誰がどこへ行っていなければいけなかったのか忘れてしまいそうになるのだが、若い士官が言おうとしたのは、おくさまは二週間前に、伝染病がまだ蔓延していない山の方の地方へここから離れて出発なさっているべきだったのです、ということは、すでに知っていることなのだし、以前、この物語を読んでくれた母親も〈「おそろしいほどです。」若い男の人はふるえ声でこたえました。「おそろしいほどです。レノクスのおくさま。おくさまは二週間まえに山の方へおいでになってなくてはいけなかったのです。」〉と読みあげてから、これじゃ、舌を噛んじゃうわよ、おいでになってなくてはいけなかったのです、まるで早口言葉みたいじゃないの、おくさまは二週間前に山のほうへ出発なさるべきだったのです、と言い直し、このほうが簡潔で若い士官風の言葉づかいではないだろうか、と言ってから先きへ進む。

どんだけくり返すんだっていうぐらい、「おいでになってなくてはいけなかった」が出てきますね。このくり返しの多さも、『噂の娘』の文体の特徴です。呪文っぽいというか、どこか催眠的。読んでいるとどこへ向かっているのかわからなくなるのは、金井美恵子について言ってるようにも思えますが、まあそれはそれとして、このあとは、またなめらかにインドのシーンに戻っていきます。
つまり、例のインドの話は何かの本に出てくる物語ということです。主人公の少女がその本を読んでいるのか、それともかつて読み聞かせてもらったお話を思い出しているのかはわかりませんが、小説内小説ってやつですね。
面白いのは、〈〉で括られた母親が読み聞かせるこの物語と、地の文に出てくるこの物語の描写の濃さがまったく違うこと。最初に引用した部分からもわかるように、いちいち描写されるテクスチャーや匂いは、まさにこの『噂の娘』の描写と地続きです。そもそも、小説内小説が「地の文」に出てくるというのが、地続きの証拠というか。引用や会話文を示す「」が出てこないというのも、インドの話とモナミ美容院での話が溶け合っているような印象を与える一因でしょう。

それから、どうなるの、ねえ、それからどうなるの、と、弟は語り手が疲れた声を休めているごく短かい、いわば〈一息つく〉程の間の物語の空白を怖れているのか、それとも、登場人物たちの身の上が気になってしかたがないのか、話しつづけたせいで、いがらっぽく渇いている咽喉に湿り気をあたえるためにお茶を飲んでから「しんせい」に火をつけて、ゆっくり煙を吐き出しているおばあちゃんの着物の袖を引っぱるので、甘ったれ屋のお夏が御馳走をねだる時みたいだ、と笑われ、でもお夏ちゃんは手で引っぱるんじゃなくて、行儀が悪いから口で袖を咥える、よだれでベトベトにしちゃうじゃないか、と文句を言い、ついでに、どうして男なのに女の役をやるのか、と訊くのだが、それはお芝居では昔からそういうことに決っていて、女の役も男がやることになっているからだ、と、わかりきったことを訊かれいくらか不機嫌そうに答え、弟が、変なの、そんなのおかしいや、と言うものだから、変なんかじゃない、それが芝居の「芸」というものなんだよ、女形は女のこころを演じるの、と説明し、悪い役人と商売敵の悪い商人のめぐらした陰謀で、無実の罪で店をつぶされ、父親と母親を殺された雪乃丞は、父と母の仇を討つために自分の身分を隠さなければならず、そのために一番いい方法は上方で――上方というのは大阪のことなんだよね、髮のかたちのことじゃなくて、ぼく知ってるよ、そう、物知りなんだね、そうでもないけどね――女形になることで、おやまというのはおんながたのこと、そもそも江戸の大商人だった父親というのが上方の一座を贔屓にしていて――ひいきってのは悪いことだよ、山口先生は栗田って女の子をひいきしてるんだよ、ませてるんだよ、栗田は、すかしてやがんの、ほかの子は呼び捨てにするくせに、栗田にだけは、さんを付けるんだよ、それとは別なのよ、芝居を気に入って、好きなもんだから、いろいろと芸人たちの面倒を見てやるってことだね、お金をあげたり、おいしい物を御馳走してやったりして、いいお芝居が出来るように助けてあげるってことだわね――その一座の侠気(おとごぎ)のある座長が、商人の恩に報いるために、一人残された息子を引き受けて、芸や踊りを教え、その一方、ちゃんと仇討ちのために剣術も習うのだけれど、

会話文の「」がないと、こうなるという例。モナミ美容院のおばあちゃんが弟に、お話を聞かせているシーンです。どうやら長谷川一夫の映画について語っているらしい。これがまた主人公が変装する話で、それだけでもややこしいのに、弟が口を挟んであれこれ脱線するため、何の話を読んでいるのかがわからなくなります。
女形についての話がチラッと出てきますが、これは、前のお人形遊びのシーンで、男の人形が出てこないというのを思い出させます。ホント、とことん女だらけの小説なんですよ。
このあとも、おばあちゃんの語りは、長谷川一夫について雑誌の切り抜きにこう書いてあったとか、あたしの娘時代はこうだったとか、脱線してばかり。さらにモナミ美容院の次女が口を挟んできたりと、例によってお話はなかなか先へ進まず、お喋りと語り聞かせの境界がどんどん曖昧になっていきます。
「境界線がない」というのは、この小説の特徴と言っていいんじゃないかな。会話も本で読んだ物語も映画の中のお話も、思い出も妄想も噂話も、渾然一体となって溶け合っている。もやーっとした陽炎越しに見ているような、夏の熱気に浮かされているような、そんな感覚。


ということで、今日はここ(P91)まで。毎度引用が長くてすみません。