『噂の娘』金井美恵子【3】


ふと思い出したんですが、ユズキカズというマンガ家がいて、この人の描くマンガは、夏の暑さ、ちょっと前の日本、商店街、美容院、少女たちなどなど、『噂の娘』と共通のモチーフが出てきます。コマの隅々まで埋め尽くされた絵の密度も、金井美恵子の微細なものまで描写するスタイルを思わせたりして。読み返したくなっちゃったなあ、ユズキカズ


では、続きにいきます。
さて、モナミ美容院に預けられた翌日、弟はおばあちゃんと映画に行ってしまい、残された少女は二階の窓から近所の女の子が物干台でお人形あそびをしているのを眺めています。お菓子や靴やYシャツの空き箱を部屋にしたミニチュアの家族ごっこに、カメラはぐぐっと寄っていきます。。

人形は、青い眼で金髪なので、彼女たちの住んでいるところは多分アメリかだろうから、朝食に食べるのはアイスクリームやチョコレートで、見る映画は外国映画の恋愛物に決っていて、赤いつやつやした模造紙が蓋に張ってある婦人靴の箱の自動車に乗って人形たちは出かける。そこでは何がおきるというわけではなく、遊びであるにもかかわらず、石けりや鬼ごっこやかくれんぼやゴムまりつきやおはじきのように勝ち負けがなかったし、男の子の格好をした人形というか、男の子の姿に出来ている人形――五月の節句に飾る金太郎や桃太郎の人形は桐の箱に入れられて新聞紙に包まれ、土蔵にしまわれているし、そもそも男の子の形をした人形など、誰も欲しいとは思わない――を誰も持っていなかったので、つるつるした滑らかな光沢のある模造紙を張ったボール紙で出来たワイシャツの入っていた箱や靴の箱を縦や横にして並べた人形の家には女達しか住んでいなくて、

前半、「見る映画は外国映画の恋愛物に決っていて」というのが可笑しい。別に決ってはいないでしょ、って思いますが、きっぱり断定するところが金井美恵子らしい。その美意識の中では、それが正解なんですよ。誰が何と言おうと。
「そもそも男の子の形をした人形など、誰も欲しいとは思わない」というのも、また小気味いい断定です。女の子は、金太郎みたいな無粋なものには興味はないと言わんばかり。男の僕としては、「そ、そうなの?」とたじろぐけどね。
この女たちしか住んでいない人形の家は、モナミ美容院に重なりますね。このあたりは、金井美恵子が手の内をチラっと覗かせているというか、読者に目くばせしているところでしょう。女の子たちはお人形あそびで、朝食のメニューや見に行く映画などの細かなディテールを積み上げていく。そんな風にして『噂の娘』も描かれているんだと。
この父親不在の人形の家の背景についても、それなりのディテールがあったりします。これが、なかなか面白い。

父親は戦争で死んだか、あるいは遠くの町か海に行って長いこと留守にしているか、もしくは奥さんとの関係がうまくいかずに(別の女に気持ちが移ったのかもしれないし、ただ単に、人絹の安物の機械編みレースが縁飾りについた派手な原色のボンネットのリボンを顎の下で大きな花結びにした大きな眼と小さな唇の頬が桃色の、白いおまんじゅうのようにまん丸な顔の子供っぽいママー人形の「奥さん」に嫌気がさしただけなのかもしれない)、いわゆる「別居」をしていて、それは「離婚」よりは、べっきょのほうが外聞が悪くないからだ、と青い眼の人形の持ち主の女の子が言い、そもそもその結婚はふさわしいものではなく、お金持ちの銀行家のおとうさんが破産して自殺してしまい、工場で働くことになった若い男が、「じぼうじき」から女工と仲良くなって、女工の女の人には子供が出来ちゃったのだ、と語ると、別の女の子が、堕しちゃえばよかったのに、うちでまえに働いていた女の人は、おばあちゃんかおかあさんに言われて、そうした、と答えるのだが、だって堕しちゃったら、このジェニーが産れてこないじゃないの、と金髪の人形を抱きあげ、頬をふくらませて文句を言い、

ドキッとしますね。お人形あそびで、こんなことまで話すんでしょうか? 「奥さんとの関係がうまくいかずに」とか、「『離婚』よりは、べっきょのほうが外聞が悪くない」とか、「堕しちゃえばよかったのに」とか、妙に生々しい。いや、生々しいように聞こえるけど、そうでもないか。この女の子たちは、たぶん大人たちが話していたのを聞いていて、その口ぶりをマネしているんでしょう。子供は意外に、大人の口調を覚えていたりするもんです。
子供目線で描かれているこの小説には、実は、こうした「大人の事情」みたいな話もポンポン出てきます。ただ、子供の聞いている話なので、どこか実感が薄くお話の中の出来事のような描かれ方をしている。「じぼうじき」が何だかわからないままに話してるような、そんな微妙な距離感がある。まあ、「子供っぽいママー人形の『奥さん』に嫌気がさしただけなのかもしれない」なんてのは、大人にしかピンとこない話のような気もしますが。そのあたりが、ゆらゆら揺らいでるところが気になります。
さて、そうこうしているうちに、主人公の少女は慣れない環境に当てられたせいか、熱を出してしまいます。ここでも、「体温計の細い水銀の柱が切れてしまっていた」とか、「水と氷がゴボゴボと揺れながら音をたてるゴム製の水枕」とか、記憶の襞に触れるような描写にグッときます。今じゃすっかりデジタルの体温計を使っていますが、そうそう水銀の体温計って、途中で切れちゃうことあったよねえ。水枕なんて子供の頃以来使ってないけど、確かに氷がゴロゴロしてて変に生々しい感触だったよねえ。とかなんとか。
その他にも、こんなシーンが出てきます。

美容院の下の娘が、煮リンゴ入りのブラマンジェならば咽喉が痛い時にでも、するっと通るから少し食べてみる? 赤ちゃんの離乳食にも病院にも最適の柔らかく栄養に富んだ冷菓で、正餐のデザートに供する場合には、洋酒入り砂糖煮果実ソース(別項参照)を添えます、ほら、そう書いてあるしね、と婦人雑誌の別冊付録の料理の本の、輪郭がにじんで赤と青と黄色のインクの線がぼやけ気味に重なっているカラー写真を見せ、食べたいようだったら作ってあげる、と言い、

これは、おいしそう。この小説には、前のかき氷といい、オレンジジュースといい、おいしそうなお菓子がいっぱい出てきますね。僕が子供の頃、風邪をひいたときはリンゴおろしをよく食べさせられてましたが、この家ではブラマンジェですよ。さすが美容院、ハイカラです。しかも、熱を出したときに食べるっていうのがいいです。リンゴおろしだって、普段食べようと思えば食べられるでしょ。でも、病気で食べるときのおいしさとはまた違うんですよ。熱を出したときのリンゴおろしは、ひんやりとしていて、どこか甘美なイメージがある。
それはそれとして、「洋酒入り砂糖煮果実ソース(別項参照)を添えます」という部分は、「ん?」と思わせますね。どうやら料理本をそのまんま引用しているということのようですが、ふいに「(別項参照)」と出てくるもんだから、どこからが引用部分かわからなくて、一瞬違和感を感じる。
この小説では、引用部分で「」を使わないんですよ。地の文とひと続きの、長い長いセンテンスの中にそれが紛れ込んでいる。そのくせ「(別項参照)」なんていうフレーズは、()と一緒に引用するんです。これは、読みづらいと言えば読みづらいですが、いろんなディテールが渾然一体となったような、不思議な感触があって面白い。
引用だけじゃありません。さっきの、お人形あそびのシーンからもわかりますが、会話文にもカギカッコは使われていません。これは、この小説の大きな特徴です。

声を低めたささやき声で、おばあちゃんと美容院のマダムと長女が話しているのが聞えてきて、話しの途中に、幾つもの感嘆符が混ったような、へえーっ、とか、そおお? とか、あら、いやだねえ、こわい、こわい、といった言葉がとびかうので、私はおびえてしまうのだが、ひそめ声で驚きを押えた感嘆符の調子や、うなずきかえす声の調子から、最初に思ったように父親と母親について話しているのではなく、つい昨日、珍しく美容院(みせ)にやって来てコールド・パーマをかけて和服用に髮をセットして、今さら手入れしても無駄だと思うけど、となんだかいやーな笑い方をして美顔パックとメーキャップをしていったタドコロさんが、今朝、ダンナの愛人の若い女を出刃包丁で刺した、と言っていて、

寝ている少女のもとに聞こえてくる、美容院での噂話。このシーンだって、「」でくくればもうちょっと読みやすい文章になるでしょう。でも、金井美恵子はわざとそうしない。そのせいで、少女が聞いている言葉と、少女の頭の中で考えていることの境界がぼやけてしまう。それが僕には、お人形あそびをしていた女の子たちが、まるで自分のセリフのように、大人の口調をマネして「堕しちゃえばよかったのに」って言っている姿と重なって見えます。
そもそも、この小説の語り手は誰なのか? 一人称のようにも見えるけど、どこか自分を外から見ているような感じもあるし、妙に紗がかかったような不思議な距離感もある。自分と世界との境界がぼやけていくこの感じは、小説全体のトーンになっています。それは、熱で浮かされているもやもやとした感覚や、夏の暑さに揺らめく陽炎のようでもある。

薄い蜂蜜色の光で部屋は染っていて、いろいろな匂いの混りあったかぎなれないよその家の匂いや蜂蜜色の淡い光のなかで、ぼうっとした灰色に輪郭が染っているというか灰色の中に輪郭がにじんで溶けかかっている古びた見なれない家具の金具が微かに反射して光るのを見ていると、また眠気が襲ってくるような気がするのだが、ねむけがおそう、というのはどういうことなのだろうか、ねばつく涎を鋭い大きなとがった牙からしたたらせた猛獣のようにおそうわけでもないだろうし、集金の帰りに森田さんのおじさんが正法寺の墓地の土塀と銭湯の裏口にはさまれた狭い路地で――(中略)――紺色のツバの野球帽とガーゼのマスクと黒眼鏡で顔を隠して一人は野球のバット、一人はクリ小刀を持ったジーパンにジャンパーを着た二人組の若い男に背後からおそわれて、右腕をバットでなぐられて集金したお金の入っている革の袋を奪われたことがあったし、インディアンは騎兵隊を襲い、騎兵隊はインディアンのテントを襲い、殺人者の手袋をした手は絹のストッキングを持って背後からグレース・ケリーの首を襲い、ジェイムズ・スチュワートは高い所に立つとめまいに襲われ、暴風雨に海岸の人家は襲われるのだが、もちろん、眠気はそういった暴力的なやり方で襲ってくるわけではなく、急にあたりが暗くなり、なにもかもが静かになってしまうだけだ。いきなり、眠りのなかへのみこまれてしまうのだ。

熱に浮かされてあたりを見回せば、モノの輪郭はゆるゆると溶けてゆき、逆に脳内にはありもしない断片的なイメージがありありと浮かんでくる。それが一つの文の中で、地続きに起きているところが、魅力的です。でも、そういうもんでしょ。頭で考えていることと、ぼんやり見ていることの境界なんて、そうそうはっきりしたもんじゃない。眠かったり熱が出てたりすれば、なおさらです。
「ねむけがおそう」という言い回しから、あぶくのように浮かんでは消えていくイメージの数々。これまた列挙癖ですが、このイメージ群が並列には描かれていないところが面白いです。むらがあるところに、リアリティを感じます。そういうもんだよね、と。
またしても噂で聞いたと思しき「森田さんのおじさん」が暴漢に襲われたやけに詳細な話から、様々な西部劇に出てくるざっくりとしたイメージ、「暴風雨に海岸の人家は襲われる」も映画かな? グレース・ケリーとジェイムズ・スチュワートは、ヒッチコックの映画でしょう。『ダイヤルMを廻せ!』と『めまい』。この小説の冒頭シーンを、僕は「まるでヒッチコックのようなカメラワーク」と書いたんですが、ヒッチコック、ここで出てきましたね。んふふ、思わずにんまり。


ということで、今日はここ(P63)まで。今回読んだところでは、主人公の少女はお人形あそびを眺めているか、熱を出して寝ているだけです。それなのに、こんなにいろんなことが書けちゃうんですね。ストーリー展開とかがほとんどないんですけど、そんなことは瑣末なことですよ。と、金井美恵子ばりに断定したくなります。