『噂の娘』金井美恵子【1】


噂の娘 (講談社文庫)
更新したりしなかったりで、非常にノロノロとしたペースでやっていますが、読みたい本は常にあったりします。そこで今回は、文庫を買っておきながら、ずっと手をつけてなかった日本の小説を読もうと思います。
『噂の娘』金井美恵子
です。
金井美恵子のエッセイはチラチラ読んでるんですが、小説を読むのは、学生時代ぶり。例によってストーリーはほとんど覚えていませんが、固有名詞がバンバン出てくる、改行のない文章が延々続く、という印象が残っています。
この『噂の娘』も、パラパラっとめくる限り、改行少なめで文字びっしり。まあ、そういう本を読むために、このブログをやってるので別にいいんですけど、金井美恵子は「断然、読者は女の人しか考えていません」と言っているようで、そっちのほうが気になります。少女が主人公の小説らしく、僕に少女の気持ちなんかわからないんじゃないか、それが心配なようでもあり、楽しみなようでもあり…。
では、いきましょう。


まず、非常に印象深い冒頭部分から。

緑と灰色のだんだら縞の防水布で出来た日除けと雨除けを兼ねている巻き込み式になって開いたり閉じたりする屋根は、店が西に面しているから、夏の間は午後になると、帆船のたたまれていた帆がくり出されるように、屋根を支えている金属製の枠に組込まれている鎖を操作して――と言っても、垂れ下っている二重の輪っかの鎖をガラガラともジャガジャガともきこえる騒々しい音をたてながら両手で引っぱるだけのことなのだが――日焼けと雨で色あせて変色した緑色と灰色の防水布製の屋根が引き出されて店先きから奥にまで入り込む、ぎらぎらした長い午後の黄色っぽい西陽をさえぎり、東側に並んで店の入口が西に向いている商店街の店の内部に、微かな薄暗い陰が出来るのだが、薄暗い陰は涼しさを保証しているわけではなく、まだ熱気がこもっている。

要するに「夏で暑い」ということなんですが、軒先の日除けの描写だけでこれだけ費やすということに、引きつけられます。特に鎖のあたりは、熱を帯びた感触や錆びた鉄の匂いまで連想させます。しかも、これで一文なんですよね。さらに、これに続く文章も長い。引き続き引用します。

通りの南から北に時々吹き抜ける風が、店の家並に張り出した、たいていは、緑と灰色か、カーキ色の無地の防水布の日除け屋根の端に垂れたスカラップをハタハタと揺すり、通りの中心に規則正しい間隔で植えられた柳の長い枝垂れた枝をなびかせ、洋品店電気屋の店頭に張りわたした針金にアルミニュウムの洗濯ばさみでとめてある「おつとめ品」の名前と値段を墨汁で書いた模造紙や色付きのラシャ紙のビラがカサカサはためいて、軽いアルミニュウムの洗濯ばさみがぶつかりあい、町はさびれているというわけではないのだけれど、人通りはまばらで、通りに面した二階の窓も、裏側の物干台に出られる西側の窓もすだれをおろしたまま開け放されているのに、風は南から北に時折吹きぬけるだけで、部屋の中には通らず、くすんだ水色の扇風機――金属製の防護網には透きとおるナイロンの長さの不ぞろいのリボンが三本結んであって、扇風機が回って風を送っていることを知らせている――のうなり声と、何台もの編物機の前に座った女たちが、糸をからめた金属のずらりと並んだ針の上に規則正しい速度で、糸を巻いた器具をすべらせる、じゃあーっじゃあーっという音がしていて、窓の手すりにもたれて身体を外にのばすと、汗ばんだ顎の下に風があたってひんやりとする。

これまた読点がなかなか出てこない、長い長い一文。今度は風です。風の通り道をカメラがずずーっと追っていく感じでしょうか。って、思わずカメラなんて書いちゃいましたが、このシーンはとても視覚的で、カメラワークを感じさせます。息の長い文章のせいでしょうか、ワンカットの移動撮影で撮られた映画の冒頭シーンのようです。揺れたりたなびいたりはためいたりするモノを映すことで、目には見えない風を感じさせるというのは、映画の常套手段です。
日除けをしばらく映していたカメラは、やがて風に動く様々なモノを追いながら、舐めるようにするすると商店街を映し出していきます。そして窓から部屋の中の様子をしばらく覗き込み、最後にすーっと主人公に寄っていく。まるでヒッチコックのようなカメラワーク。「汗ばんだ顎の下に風があたってひんやりとする」というところに至って、ようやく主人公の気配が感じられるという流れが、すごくいいです。
「防水布の日除け屋根」「アルミニュウムの洗濯ばさみ」「色付きのラシャ紙」など、どこか懐かしいモノが出てくるのも魅力的です。中でも、扇風機に結ばれたリボンには、クラッときました。これも風を感じさせるモノ、ですね。最近はあんまり見ない気がしますが、僕が子供の頃は扇風機にリボンを結んでいる家庭って、けっこうあったんですよ。
以下も、一文がえらく長い文章が、ゆるゆると綴られていきます。そして、こんなところで僕はふと立ち止まる。

私は赤いところに真珠色の光沢が入ったビニールの紐で夏休みの宿題用に編んでいる、出来上ると紐で開閉できる口のとこに四つの丸い花弁の飾りのある巾着型の小さなハンドバッグを作る作業にはとっくにあきあきしていたし、

このうねうねした文章の途中、ここで始めて「私」が出てくる。徐々にわかってきますが、「私」は小学生の女の子です。またしても映画に例えると、画面の中にふいに顔が映し出されるような感じというか。この微妙な距離感が面白いです。
あと、このハンドバッグの描写もいいですね。「真珠色の光沢が入ったビニールの紐」というチープで愛らしい素材が、やっぱりどこか懐かしいんですよ。
このあとには、「ドーナツ盤」や「四十五回転」のプレーヤーなんかも出てきます。そのプレーヤーでかけられるのは、「四月の恋」「ラブ・ミー・テンダー」「暗い艀」などのポピュラー・ミュージック。これらのタイトルから想像するに、時代は昭和30年代初めでしょうか。
さっき引用した中に出てくる「おつとめ品」なんていう言葉も、今じゃ使わない言葉ですよね。このあとも、「グレン隊」とか「いい仲」なんて言い回しもが出てきたりして、そういうところも、昭和30年代を感じさせます。いや、僕はまだその頃は生まれてませんが。

娘は、フンと鼻を鳴らし、あそこは頼まないから関係ない、柏屋のかき氷は手廻し式の氷かき機で、氷がジャリジャリしてるけど、タハラヤのかき氷は電動式で、スイッチを入れると、「ブォーン、ウォォーン、シャーッ、シャーッ」という音と同時に「フワフワして真っ白でサラサラした粉雪」のように氷がグラスの器に山盛りになって、「味もシャーベットのように高級」なのだと説明し、コニーデ火山の形に盛り上げたかき氷に、鮮やかな黄色(レモンと言うよりは、ヤマブキかヒマワリか菊の花のような黄色)と、鮮やかな赤(真っ白なコニーデ火山のかたちをしたかき氷の山頂をシロップがややへこませて、赤と白との間で変化するグラデーションになって、かき氷を染めている牡丹色がかった赤)のシロップのかかった「粉雪」か「シャーベット」のようなかき氷を、私たちはそれを運んで来た若い男とお喋りしながら、スプーンで口に運び、

電動式の氷かき機が珍しかった時代なんでしょう。手廻し式との違いにこだわっているあたりが、なんだかとっても愛おしい。「シャーベットのように高級」って、いいなあ。今じゃ、シャーベットが高級だなんて発想はないもんなあ。
さらに、シロップの色の執拗な描写も面白い。あのけばけばしい色は、決してレモンやイチゴの色じゃないですからね。「かき氷の山頂をシロップがややへこませて」なんて、ありありとその様子が目に浮かぶ、見事な描写だと思います。はああ、うっとり。


ということで、今日はここ(P25)まで。まだ数ページですが、丹念に描かれるディテールがすごく魅力的で、引き込まれます。ただ、全体像はさっぱり見えてきません。ついつい、カメラアイになって、細部ばかりを見つめちゃう。