『悪戯の愉しみ』アルフォンス・アレー【3】


また2カ月半も間が空いてしまいました。更新できなかった理由は何だかんだあるので、いろいろあったで済ませちゃいますが、その間に『悪戯の愉しみ』は、読み終えちゃいました。「読んでる途中で書いてみる」というわけにはいきませんでしたが、残りの作品の話を交えながらまとめてレビューします。


では、まず「旅先で」という作品から。

ここでは名は挙げない多くの人たちとは逆に、ぼくは汽車に乗るとき、がら空きの車室よりも満員に近い車室に入り込む方が好きだ。
理由はいろいろある。
第一に、人を困らせるためである。
諸君もそうですか。ぼくは人を困らせてやるのが大好きなのだ。というのは、人間はどいつもこいつも胸くその悪くなるような、嫌なやつばかりですからね。
まったく嫌になるよ、世の中の人間ってやつは。
つぎに、ぼくはまわりで人があほらしい話をしているのを聞くのが好きなのだ。神さまがご存じさ、連中がどんなにバカかってことは。諸君は気がついたことがありますか。

これが、アレーのスタイルです。人を困らせるようなことを言う。バカげた人たちを嘲笑う。ただし、口汚く罵倒するような知性のない方法はとりません。もっともらしいことを言って、人を煙に巻くというのがアレーのやり方。それが特徴的に表れているのが、やたらと出てくる発明や科学の皮をかぶった与太話です。

自分の血液に含まれる鉄分で指輪をこしらえたり、全身の骨の燐を利用してマッチを作ったりする老紳士の話ははなはだ珍しくはありますが、しかし、それは要するに愛すべき冗談以外のなにものでもなく、しかるに一方、科学と功利主義の現代において、人間の遺骸の工業的利用を実行に移すことは今や可能である、あなたはそう思いませんか。
たとえば、遺体から骨灰しか作り出せぬとは、なんと勿体ないことでしょう。

バルタザール氏は間接的方法を用いて、次のように考えた。
――涙は味をもつべきか、もたざるべきかのいずれかであった。
まず、涙は味をもつべきであったことを証明し、つぎに塩味以外のいかなる味をもっても滑稽またはおぞましい事態を招いたであろうことを証明しよう。
一、《涙は味をもつべきである》。――これは疑う余地がない。たとえば、母親がわが子の遺体の上に味気のない涙を注ぐなんてことが想像できようか。
否、断じて否だ。そうでしょう? (以上で証明終り)。

「小生は、ミルボー氏ならびに貴殿によって紹介されました《逃走キュウリ》(cucumis fugax)のことは存じませんでした。しかしその事実には、何ら驚くべきものはないと思われます。と申しますのは小生、インドで、森全体が一日に百乃至百三十メートルの割合で移動するのを見たことがあるからであります。
問題の森というのは、茎の成長の異常な早さで有名な《走りタコ》(pandanus furcatus)と呼ばれる種類の木から成っております。

引用は順に、「なにものも無駄にせずに」「涙」「歩行植物」より。それっぽく書かれていますが、論理は飛躍するは、証明はいい加減だわ、人をおちょくってるとしか思えません。しかも、死体を有効活用しようと言ってみたり、子を失った母親の悲しみに思いを馳せたり、「死」に対する態度が一貫しないところも、信用ならないところです。
さもそれが前提のように「逃走キュウリ」の話を始めるあたりも、人を食ってます。何ですか、逃走キュウリって…。アレーは、この手のもっともらしい言い方をありがたがるような感覚そのものを、嘲笑しているんでしょう。学名なんか出されるとコロっと信じちゃうような権威主義は、アレーの格好の標的だと言えます。
これはちょっと毛色の違う「発明」ですが、「二十二号室の目覚め」にはこんな発明が出てきます。

ホテルの受付には、泊り客が起こして欲しい時間を記入する石板が掛けてあった。
日ごろからぼくは、急に起こされるのが大嫌いだった。それで、ずっと前から自分の部屋の番号でなく、両隣の部屋の番号を記入する習慣をつけていた。
例。――二十一号室にいるとする。ある時間に起こしてもらおうと思えば、二十号室と二十二号室の番号を記入する。
こうすれば、目覚めはさほど急激でなくなる。
(この手は、いささか神経質な旅行者各位には、とくにおすすめできます)。

つまり、ホテル両隣の人が起こされる音を聞いて、ゆっくりと目覚めるというわけです。ひどいよ。ひどいけど、こういうひどさにはシャラっと目をつぶるのが、アレーの可笑しさです。「不謹慎」って言うのかな。真面目な人が怒り出しそうなことを、瑣末なことのように扱うわけです。
「人を困らせてやるのが大好き」なアレーは、ポーカーフェイスでとんでもないことを言います。なかなかイヤな奴ですが、あんまり堂々としてるもんだから、どう対処していいものかわからなくなる。ジョークはこうでなくっちゃ面白くありません。

ぼくはこれまでにたくさんの女中に出会った。
それ以上にたくさんの女中が好きになった。
だがこんなにぴちぴちしたのには、二度とお目にかかることはあるまい。

「純愛物語」より。この文章、「女中」じゃなくて「女」だったら、普通の文なんですけどね。女中しか眼中にないのか、というような書きっぷりが心をざわつかせます。

わたしは毒物にたいして半信半疑の態度をとっていた。センチグラムとかミリグラムというのが何ともけちくさく思われ、本能的にきらいだった。どんとグラムでいけ!
というわけで、それまで効き目がよわいとみなされていた薬の調合に、しばしば猛毒をたっぷり加えてやったものだ。

ダーウィン萬歳」より。「どんとグラムでいけ!」と威勢がいいんですが、それを使う場所を間違っている。と、突っ込む間もなく、あーあやっちゃった。しかもまったく悪びれてないところがタチが悪い。

――それにもう見あきたよ、エッフェル塔なんて。
――見過ぎた。……保存するのは結構、だが模様替えしてやろうよ。
――ひっくり返して頭を下に、足を空に向けたら?
――それこそ、まさにぼくの考えていたところだ。でも、ぼくの考えはそこで止まりはしないよ。

「一九〇〇年のためのエッフェル塔利用法」より。アレーと友人の会話のようですが、エッフェル塔を逆さにするなんてのはまだまだ凡庸なアイディアだ、と言わんばかりの勢いです。
「恰好をつけるために」という作品の書き出しもすごいです。

ご多分にもれずぼくも良心のうえにいくつかの、いやそれどころかたくさんの死体をかかえこんでいる。それを思うと鳥肌がたち、このハンサムな顔から血の気がひくほどだ。
とくに女。
いやまったく、ぼくはどれほど多くのあわれな女の死に目に立ち会ったことだろう。
あるものは、直接ぼくの手にかかって、あるものは、ぼくの妖しげな美貌のかきたてる不幸な情熱の犠牲となって、最期をとげた。

「ご多分にもれず」というあたりが、アレーです。「そんなのあんただけだよ」という意見を予め封じてしまう。しかも、主人公の青年の自分の顔に対する妙な自信。それもさも当然のように、「ハンサムな顔から」とか「妖しげな美貌の」とか言うのが可笑しいですね。太宰治の『人間失格』を裏返しにしたような、ふてぶてしさです。
まだまだ挙げようと思えば続けられますが、キリがないので最後に僕の好きな作品を紹介して終わりにしましょう。
寡婦の息子」という、父親に軍隊に入れられた甘ったれた息子と、それを救い出そうとする母親の話。兵役に就いた息子からの手紙が面白い。母親が軍隊まで届けたチョコレートを「すっかり他の連中に食べられた」、と書かれているんですよ。チョコレート! どんだけ女々しいんだ? そして、寡婦の息子なら兵役を免除される、ということを知った母親は、夫を殺すことを決意する。この夫(マルタン氏)がバルコニーからつき落とされるシーンがいい。

マルタン氏が落下を完了してアスファルトに到着したとき、肉塊をたたきつけるようなベタッという鈍くやわらかな音がした。ほとんど同時に別の音がした。カランという海泡石のパイプが割れる音が。
マルタン氏は、愛用のパイプをこわしてしまったのだ。
ちょうどそばを通りかかった劇場帰りの一人の若い女が、全身に灰色のはねを浴びた。
ハンカチで服をぬぐおうとしていると、親切な通行人が言った。
――そいつは脳味噌ですよ。染みは残りません。自然に乾かして、明日、ブラシをよくかけたら落ちますよ。
その通行人はつぎの点で間違っていた。人間の脳味噌には(燐化した)脂肪が含まれているから、他の脂肪性の物質同様、生地に染みをこしらえるのである。

ああ、哀れなマルタン氏! 「落下を完了して」なんて、まるでモノのような言われよう。亡くなったっていうのに、パイプの音や脳味噌の染みの話ばっかりで、彼の不幸は見向きもされません。特に、脳味噌の染みのくだりは可笑しいですね。「灰色のはね」の語に、良識ある人は眉をひそめるでしょう。それが染みになるとかならないとか、例のもっともらしい口調で語るところまでいくと、明らかにストーリーから逸脱しています。死の悲しみや厳粛さは、アレーにかかるとハンカチでぬぐう程度の問題にされてしまいます。
短い話なので、このあとどうなるかは省きますが、皮肉屋で意地の悪いアレーは、この作品の最後をこうしめくくります。

諸君の想像どおり、作者はこのことを二人にはおしえてはやらない。
ガストンのやつがどんな面をするか、それを思うといまから笑いがとまらない。

だから言ってるじゃないですか。アレーは、「人を困らせてやるのが大好き」。つまり、それが「悪戯の愉しみ」ということです。


ということで、遅くなりましたが、『悪戯の愉しみ』、読了です。