『悪戯の愉しみ』アルフォンス・アレー【2】


今回読んだのは次の10編、「親切な恋人」「夏の愉しみ」「輝かしいアイデア」「宣伝狂時代」「新式発明」「小さな生命を大切に」「ひげ」「法律」「医者」「ウソのような話」。どれも短い作品ばかりで、平均6ページくらいかな。


「親切な恋人」
これは、福武文庫版では確か冒頭の作品だったはず。そのせいか、非常に印象に残ってる作品です。
青年が、寒がる恋人を暖めるためにとった行動とは? これがかなーりとんでもない行動なんですが、にも関わらず、最後は「二人にとってこの一夜は、いつまでも最良の思い出となった」と締めくくられます。
あっけにとられる。ブラックと言えばブラックですが、ここまで突き抜けてると、ほとんどナンセンス。おどろおどろしくなりそうな話なんですが、冗談のように軽やかなところが魅力です。タイトルにこめられたアイロニーも、一周回ってロマンティックに思えてくる。以前読んだときも思ったんですが、感触としては、ボリス・ヴィアンに似ていますね。
本屋で立ち読みするならこれをオススメします。


軽やかさは、アレーの大きな特徴だと思います。不条理なことが書かれているけど、ごくごく普通のできごとのような語り口。このポーカーフェイスっぷりに、何とも言えない可笑しさがあります。冗談は笑って言っちゃあダメなんですよ。
「夏の愉しみ」では、隣人の死が語られます。

その女もいまは亡い。彼女の霊よ、安らかに眠れ。
彼女は死んだ。骨と皮ばかりの大きな腕をばたつかせ、手入れのとどきすぎた滑稽な庭の、みすぼらしい芝生のうえに倒れるのを見たとき、わたしは腹をかかえて笑ったものだ。

最後の一言に、膝カックンです。こっそりほくそ笑んだとかならまだわかりますが、「腹をかかえて」爆笑してるじゃないですか。「安らかに眠れ」なんてよく言うよ。
「輝かしいアイデア」では、発明家の男が家を訪ねてきます。

――わたしがだれだかわかりますかね。
――いや、ぜんぜん。
――そうでしょう、今はこんなにひげを生やしていますからね……それに第一、あんたとは以前に一度も会ったことないし。

別役実のお芝居のような不条理な会話。いきなり他人の家にやってきて、手前勝手な会話を進める。迷惑な話です。というか、「ひげ」は関係ないでしょ。
「宣伝狂時代」では、新聞に掲載された魅力的な広告が次々登場します。例えば、結婚相手募集の広告「縁談。当方、聾唖の娘。持参金百七十フラン」とか。

すごい、とぼくはさけんだ。持参金百七十万、これだけでも悪くないのに、おまけにオシときてやがらあ。こいつはもうけものだ。手紙を書こう。

広告の内容も引っかかりますが、それを読んだ男の反応、「おまけにオシときてやがらあ」ってところが、ひどいです。まったく、何てことを言うんでしょう。変に浮かれてるけど、どうなのよ、それ?
「法律」では、子供に海水浴をさせるため、母親が海の水を汲みにいきます。ところが、見張りに止められる。

――あんまりだわ、海水を桶にたった二杯取ることもできないなんて。
――だめ、認められていないんだ。
――だって、一体それで誰に迷惑がかかるっていうの。
――法律さまさ。

これは、キツーいジョークです。杓子定規の役人や、人々の感覚から遊離した法律のバカバカしさを、皮肉たっぷりに笑い飛ばしている。それにしても、「法律さまさ」っていうのは、恐ろしい答えですね。人間が法律を作ったはずなのに、人間様より法律様のほうが、偉いわけです。
アレーの作品では、人間性は徹底的に蹂躙されます。死や暴力は常にそばにあり、恋愛は嘲笑われ、真心や思いやりは冷や水を浴びせかけられる。こうしたことが、ポーカーフェイスで行われるところが、「黒いユーモア」たる由縁でしょう。
そんな人間性を欠いた登場人物たちは、深みがないペラペラの紙人形のようです。アレーは、硬直した常識ってヤツを疑っているんでしょう。そんな常識に凝り固まった人間は紙人形で十分だ、というわけです。
一方、返す刀で、「法律さま」に代表されるような、国家権力や政治システムもからかっています。不条理なのは現実だって同じだ。国家や政治だって人間性を欠いているじゃないかと。このあたりが、ブルトンの言う「エスプリのテロリスム」なんでしょう。


この軽い語り口は、パーティで披露されるちょっとしたエピソードを思わせたりもします。話し上手な人って、気を惹くのが上手いでしょ。アレーは特に、書き出しが上手いですね。フックが効いているというか。

毎日、軽い朝食をとることにしている質素なミルクホールで、ぼくはいつものようにゆで卵を二つ、丁寧にボーイに注文したところだった。と、突然、となりのテーブルにすわっていた、一見温厚で臆病そうにさえ見える長身の金髪の青年が立ち上り、何も言わずに、ぼくの心臓あたりを目がけて拳銃を一発ぶっ放したのである。

「小さな生命を大切に」の冒頭。いきなりな展開です。ページ数も限られているし、ざくっと本題に入ります、というような勢い。でも、何で拳銃で撃たれたの? そう思ったら、アレーの思うつぼ。以下、その疑問に答える形でお話は展開します。

問題のひげというのは、パリでも五指に入るみごとなひげだったと仮定しよう。そしてもう、その話はよそう。
いや、むしろその話をしよう。これからする話はすべてこのひげ、他に類のない(かりにあっても、ざらにはない)ひげの上を転がっていくのだから。

「ひげ」の冒頭。こちらはやけに思わせぶり。「よそう」って言ってみたり、「しよう」って言ってみたり。「ざらにはない」って保険をかけるあたりも、可笑しいです。もういいから、どんなひげか早く教えてっ! となったら、アレーの術中にハマってるわけです。

あつかましさにかけては、医者の右に出るものはあるまい。まあ、地獄の鬼もあきれるほどのあつかましさだ。それに、あのえげつない人命蔑視!
あなたが病気になったとします。医者がやって来る。脈をとり、聴診し、問診する。だが胸のうちでは、ほかのことを考えながらだ。処方箋を書き終えると、彼は言う。「また来ます」。そして――もう安心――医者は何度もやって来る。あなたが行くまで、あの世へ行ってしまうまで。

「医者」の冒頭です。これは、いきなりテーマから入るパターン。ほとんど罵倒ですが、この極端さは笑うところでしょう。でも、そこまで言う? 「いったい何があったんだよ?」と引き込まれていきます。
「ウソのような話」の冒頭は、こうです。

わたしは今しがた「ジュルナル・デ・デバ」紙の編集長宛てに、新聞を買うのを止める旨の通告状を、厳正なる理由にもとづく通告状を送ったところである。
憤慨の原因はこうだ。この謹厳なる夕刊紙に、とんでもない話が載ったのである。しかもそれが至極当然な事柄であるかのように、淡々と語られているのだ。

この「とんでもない話」ってのは何か? 以下、それが語られるわけですが、その話に怒ってみせているところが、フックになっています。
これは前回読んだ「お返し」と同じパターンですね。だって、とんでもない話が「至極当然な事柄であるかのように、淡々と語られている」とは、まさにアレー作品のことじゃないですか。つまり、フザケた話に目くじらを立ててみせることで、マジメな読者の反応を先取りし、軽く揶揄してるんですよ。
このあと語られる「ウソのような話」は、ほとんど小咄ですね。アレーの奇想も面白いんですが、何よりオチがよくできています。


ということで、今日はここ(P94)まで。こういう、読めばわかるタイプのお話は、紹介するのが難しいですね。試行錯誤しながらやってますが、どんなもんでしょう?