『デス博士の島その他の物語』ジーン・ウルフ【4】


年またぎでずいぶん間が空いちゃったので念のため書いておきますが、ジーン・ウルフの『デス博士の島その他の物語』という短編集を、1編ずつ読んでいます。で、今回は「アメリカの七夜」という作品。3回読みました。あっちこっち引っかかるというか、不可解なことがいろいろあって、ついつい読み返しちゃったんですよ。でも、読めば読むほど謎めいてくる。いろんな解釈が浮かんできて、混迷の度合いが深まるというか…。ジーン・ウルフは、こんなんばっかりです。


アメリカの七夜」
この作品は、イラン人の青年が訪れたアメリカでの奇怪な出来事が旅行記形式で綴られています。でも、このアメリカってのが、僕らの知ってるアメリカとは随分違う。船旅でアメリカ大陸に到着する直前の描写から、早速それがうかがえます。

ぼくにとってのアメリカは、海の変色からはじまった。きのうの朝、デッキに出てみると、、海が緑色から真っ黄色に変わっていたのだ。

緑色ってのもよくわかりませんが、黄色ってのはありえないでしょ。何でそんなことになってるのかはわかりませんが、船長が言うには、アメリカは「出血で死にかけている」とか。要するに病み衰えているということです。どうやらここで描かれているのは未来のアメリカ、街のあちこちが廃虚と化し乞食があふれているアメリカです。
何故そんなことになってしまったのか。その理由は、様々な化学物質のせいで人々が甚大な遺伝子損傷をこうむったからだとか。遺伝子損傷っていうのは、平たく言っちゃえば「奇形」ですね。アメリカ人たちは、様々な肉体的変質を抱えてしまったんですよ。
ちなみにこの化学物質は、強力な意識改変ドラッグに使われていたもののようです。さらに、アメリカ人が生み出した「けっして干からびないパン」にも使われていたとか。このパンのイメージはなかなか面白いです。

そこに見えるのは、小テーブルの中央の皿に置かれた、柔らかいひとかたまりの白パンだけ――まだパン焼き窯の香りが残っている。(たしかにこの世界で最もおいしそうな香りではある)が、いちめんの灰色のカビにおおわれたパン。いったいなぜアメリカ人はそんなものをほしがったのか? 歴史家の意見は一致している。アメリカ人がそうしたパンをほしがったのは、自分の死体が永久に生きているように見えるのを望んだのとおんなじ心理だ、と。

干からびることなくどこまでもカビに覆われていくパン。それは、この未来のアメリカそのものです。そして僕には、奇形となってしまったアメリカの人々もまた、ある種カビに覆われたパンのようなものに思えます。
ところで、この旅行記アメリカの描写は、とてもエキゾチックです。どうやら未来では、イランとアメリカの関係は逆転しているようです。イランの青年は、滅びつつある貧しい国になってしまったアメリカを、旅行者特有の好奇心に満ちたまなざしで見つめ、「ホリデー・イン」を「休日の宿」、「ホワイト・ハウス」を「白い家」と呼びます。ひっくり返ったエキゾチシズム。まるで、裏返しの「アラビアン・ナイト」。
彼は劇場に足を運んだ際に、その芝居に出演していた女優に恋をしてしまいます。異国の美女へ身を焦がし、彼女に何とか近づこうと様々に試みるうちに、彼はやがて奇怪な体験をすることになります。
と、ストーリーの概略はそんなところですが、それだけじゃ終わらないのが、この作品のやっかいなところ。青年は、6個の卵菓子のうちの1つにドラッグを染み込ませ、かき混ぜてどれがその1つかわからないようにした上で、毎日1個ずつ食べていくというんですよ。つまり、ドラッグのロシアンルーレット。意識改変ドラッグがどんなものかはわかりませんが、この旅行記の記述のうち、1日分はその影響を受けているということになります。要するに、どこかに幻覚が紛れ込んでいるかもしれないわけですよ。
しかも、この日記はあちこち修正されたり、削除されりしたフシがあります。つまり、ここに書かれている記述は、まったくもって信用ならないんです。訳者の柳下毅一郎氏が指摘しているように、そもそも「アメリカの七夜」というタイトルなのに、六夜分しかないというところも要注意ポイントです。
これは気になりますよ。どの部分が幻覚なのか? どの部分が欠けた一夜分に当たるのか? そこでは何が起きたのか? 書かれていない部分を、常に意識しながら読まなきゃなんない。3回も読み返したのは、それが理由だったりします。まあ、結局はよくわからなかったんですが。
それにそもそも、この日記自体がホンモノかどうか疑わしい。何もかもが疑わしく、表面に見えるもの以上の意味を隠し持っていそうで、スッと読み過ごせません。気になってしょうがない。この作品には、芝居やドラッグによる幻覚以外にも、「そのものが見える通りのものとは限らない」というモチーフが何度も登場します。
例えば、「におい」について。

「(前略)ひとつたずねるが――コミュニケーションの最下位レベルはなんだろう?」
「会話じゃないですか」
老人のかんだかい笑い声が観客のざわめきを突きぬけた。「ちがう、ちがう! においだよ」

この作品を「匂い」という観点から読むと、匂いの描写が多いことに気づきます。目で見ているもの以上に、匂いが真実を語っていそうな気すらしてくる。街には街の匂いがあり、国には国の匂いがある。異国を訪れるとは、その匂いを嗅ぎにいくことなのかも知れません。
例えば、「国家秘密警察(略称FDE)」について。

(前略)この機構ぜんたいが、アーディスの舞台と同様に現実ばなれしていて、われわれと話しあう男女の全員が実は秘密警察の一員であり、見かけの権力の十倍もの権力をふるい、おごそかな欺瞞の儀式をつづけているような気がした。

誰が秘密警察なのか、見た目ではわからない。ひょっとしたら、役者のようにその役を演じているのかもしれない。その観点で読むと、登場人物すべてが怪しく思えてきます。イランの青年がアメリカを訪れた理由いかんによっては彼は秘密警察に狙われてもおかしくない。でも、その旅の理由も模糊としていてはっきりとはわかりません。
そして最後の方で、僧侶の行列に行き合うシーンも気になりました。

だが、そこで僕は気がついた。よみがえる命というこの儀式化された訴えは、この僕が感じる以上に、彼らにとっては異質なものであることを。

これはおそらくキリストの復活を指しているんだと思いますが、アメリカ人にとっては、「よみがえる命」は異質な観念のようです。それよりも「自分の死体が永久に生きているように見える」ほうが重要なんですよ。死すらも、見える通りのものとは限らない。辛うじて生き永らえているように見えるアメリカは、実はとっくに死んでいるのかもしれない。アメリカだけじゃありません。そこで暮らす人々も、生きているように見えるだけでとっくに死んでいるのかもしれない。
いや、わかりませんよ。いかようにも解釈できるし、そのどれが正解なのかはさっぱりわからないんですから。まるで、異国の地で迷子になるようなものですね。その土地の言葉や地理や慣習がわからず、様々な断片をつなぎ合わせて、起きていることを推理しようとするけど、正解がなんなのかさっぱりわからない。
ミステリアスな異国の夜を、ゆらゆらとさまよっている気分です。怪しげな路地、いかがわしいバザール、芝居めいた事件、不意に遭遇する深い闇…。目に映るエキゾチックな光景はまるで幻覚を見ているようですが、もはやどこからどこまでが幻覚なのかわかりません。旅人にも、読者にも。


ということで、今日はここ(P305)まで。昔読んだロバート・アーウィンの『アラビアン・ナイトメア』にも似た、めくるめく迷宮感。何が起きてるのかもよくわからないのに、ひたすら酔わせてくれます。