『デス博士の島その他の物語』ジーン・ウルフ【3】


また、2週間経っちゃいましたね。更新が滞り気味だったのは、年末で忙しかったのに加えて、難解な短編にぶち当たっちゃったせい。
ジーン・ウルフは、「ここ、ポイントですよ」というような書き方をしないので、気が抜けません。「デス博士の島その他の物語」も「アイランド博士の死」も、あちこちに張り巡らされた伏線やさりげないほのめかしみたいなものは、どこまで読めているか自信がない。でもって、今回読んだ「死の島の博士」です。これにはまいった。わからん。いや、大筋はわかるんだけど、細部がどうつながっているのかが読み切れない。これは、難物です。


「死の島の博士」
まずざっと、大まかなストーリーを書いちゃいましょう。主人公アルヴァードは、友人を殺害した罪で刑務所に収容されている最中に胃癌になり、治療可能な時代が来るまで刑務所内の病棟で冷凍冬眠を受けます。そんな彼が冬眠から覚めると、そこは癌どころかなんと不死が実現した40年後の未来。細胞療法のおかげで、物理的に肉体が破壊されれば別ですが、人々が老衰で死ぬことはないという世界。
そして、この未来社会には、不死のほかにもう一つの特徴があります。

なにげなくアルヴァードは、いま受けとった本の黒い石目革の表紙をひらいてみた。声がいった。「その『人の子』とはだれのことですか」(「ヨハネによる福音書」十二章三十四節)とたんに、彼はその本をばたんと閉じてしまった。
「あなたはこういうものに慣れてないかも。これはスピーキング・ブックといってね。そこに……本の綴じ目のなかに小びとがいて、話しかけてくるのよ。もし聞きたくないときは、見返しをひらかなきゃいい――小びとはそこに住んでるから」
「慣れてるよ。この仕組みを開発したのは、このわたしなんだ」

「小びと」なんて言ってますが、これはコンピュータのことでしょう。つまり、埋め込まれたコンピュータによって、本が自ら喋るんですよ。この時代の人々は、本と「話し合う」という表現をします。「読む」んじゃないですね。そして、そもそもそのシステムを発明したのが冬眠前のアルヴァードだったというわけです。
この「スピーキング・ブック」がどんなものか、ちょっと想像してみましょう。会話文は、キャラクターたちそれぞれの声で話されるんでしょうね。地の文はどうなるのかな? ナレーションみたいになるんでしょうか?
この小説は、ひとシーンにつき、ゴシック体で表記された短い導入の文章のあと、明朝体で本文が表記されるという趣向になっています。このゴシック体の部分が、僕には、戯曲のト書きのように見えるんですが、これはある意味ナレーション的な役割を果たしているとも言えます。つまり、この作品自体が「スピーキング・ブック」の仕立てで書かれているんじゃないかと。
未来の二つの変化、「不死」と「喋る本」。でも、アルヴァードは刑務所の病棟にいるため、外の社会の変化が断片的にしかわかりません。このちょっとした断片から世界像がうっすらと見えてくるのが面白い。

「(前略)おれの育ちを知ってるか? ちっぽけなアパートメントでさ、ばあちゃんがつもむかし話をしたがる。ミスター・ケネディとか、そのての話をな。ばあちゃんはミスター・ケネディにぞっこんでさ」意外にも、用務員はそこで笑いだした。温かい声だった。子供のころは退屈でならなかった祖母を思いだすことで、いまは幸福を味わえるかのように。
「わたしの時代より前だよ――ケネディは」
「いつもミスター・ケネディだぜ。もう近ごろはだれも使わねえな。あのミスターって呼び方はよ」

単なる言葉のはやりすたりの話でしょうか。それとも、誰もが等しく不死となった社会では、「敬称」が廃れてしまったということでしょうか。ジーン・ウルフは答えを書いてはくれないので、よくわかりませんが、いちいち立ち止まってあれこれ考えさせられます。僕らも、アルヴァード同様、読みながらピースをつなぎ合わせ、世界像を思い描かなければならない。読むのに時間がかかるのは、それが理由だったりします。
例えば、不死が実現した世界での「無期懲役」とはどういう意味があるのか? これは、難問です。アルヴァードは、自らが不死になったにもかかわらず、死の影に怯え続けます。その象徴が「死の島の博士」こと、刑務所病棟のドクター、マーゴット博士です。アルヴァードはたびたび、マーゴット博士の幻を見聞きします。でも、それは本当に幻なんでしょうか? そのあたりが、曖昧な書き方がされていて、よくわからない。

あの医師たちはこのわたしを麻酔にかけ、ガンが体を殺すままに放置し、そして腐敗しないうちに死体を凍らせた。わたしは死んだ。疑問の余地なく死んだ。
死とはなんだ? 呼吸停止か? 医師たちはそれを待った。心拍停止か? 医師たちはそれもたしかめた。細胞活動の終止か? それは冷凍中に起きた。
では、そのとき、わたしはどこに存在したのか? それとも、わたしはあのスピーキング・ブックスに組みこまれた驚異のバッテリー(もとは腕時計用)をくっつけただけのゼンマイ仕掛けのオモチャなのか? たんなるオモチャだとすれば、ゼンマイが巻いてあるか、それをながめる子供がいるかどうかは――このわたしにとってさえ――意味があるのだろうか?
では、オモチャではなく本ということにしておこう。もちろん、わたしは一冊の本だ。(彼は声を上げて笑いだしてから、だれかが部屋にはいってこないかと、あわてて口を押さえた。)そして、ここは――本箱なのだ。この刑務所は。そのことを理解するに、どうしてこんなにひまがかかったのか? ここは金魚鉢でもなく、鳥かごでもなく、刑務所でさえない。ここは、本箱だ。それも開架式の本棚ではない――がっしりした黒っぽい木材のキャビネットで、扉のついた本箱だ。

不死になったはずのアルヴァードの中では、自分が揺らいでいます。自分が生きてるのか死んでるのか、わからない。刑務所の病棟で永遠に無期懲役を受けるとしたら、それは死んでるのと同じことかもしれません。
「もちろん、わたしは一冊の本だ」。この認識は、そのまんま「デス博士の島その他の物語」につながります。さらに言っちゃえば、登場人物がコマのように扱われる「アイランド博士の死」にもつながっている。
もちろん、アルヴァードは、今僕がここで読んでいる本の登場人物です。入れ子状態でややこしいことになってますが、この小説そのものが「スピーキング・ブックス」だとしたら、確かに彼は「一冊の本」ということになる。
そして、ここで「不死」と「喋る本」とが交差します。永遠の命とは、つまり「本」のことなのだと。1回こっきりの人生から解放され、永遠に時間を留めることができるのが、「本」だというわけです。永遠の命は素晴らしい。本の世界は素晴らしい。そういう展開になってくれれば話はわかりやすいんですが、この「永遠の生」は、何だかちょっと窮屈です。
そしてアルヴァードは、ある方法を使って、この窮屈な「不死の世界の無期懲役」から脱出しようと試みます。

だが、それはたんなる本箱なのだ。ここから抜けだす秘訣は、棚から下りて、流通ルートに乗ることにある。

流通ルート! 面白いです。このあと、「本の性病」という魅力的なイメージが出てきます。性病こそ、流通ルートそのものですね。死と対極にある「性」。それが、不死の世界からの解放を意味していると、僕は読みましたがどうなんでしょう? 図式的すぎるかなあ。
ラストはよくわかりませんでした。わかった人がいたら、教えてください。


ということで、今日はここ(P224)まで。年内に読み終えるつもりだったんですが、どもうムリっぽいです。
それにしても、今回は悩まされました。「夜の叫び声の主は誰だったんだ?」「窓の外の巨大な影は何だったんだ?」などなど、ラスト以外にもわからないことがいろいろあって、ページを行きつ戻りつして答えを探すんですが、それでもよくわからないという具合に、えらく時間がかかってしまいました。でも、それが「=つまらない」にならないところが、小説の奥深いところ。ひんやりとした建造物を思わせる、ジーン・ウルフの構築力はとてもスリリングです。