『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【7】


一筋縄じゃいかない作品でしたね。するするっと読めちゃうと思ってたんですが、思いのほか時間がかかってしまいました。哲学問答みたいな趣もあって、あれこれ立ち止まって考え始めちゃうと、なかなか前に進まないという。さらに、思いつくままに書き散らかされたメモという体裁で書かれてるため、話はあちこちに飛び、ときに矛盾することもあります。ああ、ややこしい。
僕が読書の手がかりにしたのは、語り手の素性というかキャラクター。この語り手、ポーカーフェイスというか、本人も書いているように、「すばらしい場面、怒りや情熱、悲劇的な瞬間といったものを前にしても高揚しない、小説向きでない人間」なんですよ。要するに、つかみどころがない。でも、文章の端々に、素の部分がチラつくところがあって、それを軸に、引きこもりの独身中年男のつぶやきとして読んでみました。
独身中年男…、って俺じゃん。こうやって、ブログで文章を綴っている僕もまた、この作品の語り手と似たようなものだということに気づかされます。引用にまみれ、誰が読むとも知れない文章を、思いつくままに書いている。いやだなあ。何だか、恥ずかしい。
こうやって文章をつらつらと書いていると、ついついわかったようなことを書いちゃいがちです。できるだけ気をつけようと思ってますが、言ってる側から筆が滑る。そういう無自覚さにこそ、バートルビーたちは否(ノー)を突きつけているんだと思います。だから、彼らは沈黙を選ぶ。
自己表現ってのは恥ずかしい、そんな気持ちがどこかにあるんでしょう。それは、はしたないことだと。まさに、「せずにすめばいいのですが」です。日本人で、こういう感覚を持っている作家には、中原昌也がいますね。「文学なんか書きたくない」という話ばっかり書いている。「できることなら文章なんか書かないでいたいですよ、マジで」とかなんとか。言葉を無邪気に信用できない人は皆、バートルビーの仲間たちです。
そもそも、「書かない/書けない」ことについて書くというのが、すでに矛盾してるわけです。それでも書くなら、話はとっちらかったまま、矛盾をそのまんま放置して、まとめないように書くしかない。「何も言っていない」ように書くしかない。
と、僕はついついまとめちゃってますが、この作品はまとめようとしてませんね。そこがややこしくもあり、魅力的でもあります。つかまえようとすると、するするはぐらかされて、思考の迷路に入り込む。その中心は、「ノー」、つまり空虚です。
書かれなかった文学が僕らを惹きつけるのは、それが空虚だからかもしれません。いかようにも読めるけど、どのようにも読めない文学。文学の可能性と限界を同時に示してしまう文学。
「わたし」が裏の文学史の網の目をたどっていくうちに、20世紀が暮れていきます。もちろんこの作者は、そんなロマンチックに濡れた書き方はしていませんが、それでも「終わりの季節」を迎えていることは間違いないでしょう。迷路をさまよっているうちに、いつしか言葉が潰えていく。

一九九九年七月八日の今日は、この日記を書きはじめたせいでいつになく幸せな気分にひたっている。

と始まり、

明日になれば太陽が隠れ、この千年が完全な形で最終的に終わりを告げる。

と終わる。
文学の終わり。言葉の終わり。「終わりの季節」を乗り越えるためにはどうすればいいのか、僕にはよくわかりませんが、この作品は、とりあえずその薄暗がりに目をこらしてみましょうよ、という試みのように思います。それは、まるで限界と可能性が同時に存在するような、日暮れとも夜明けともつかない薄暗がりです。


ということで、『バートルビーと仲間たち』はこれでおしまい。
ところで、この作品は、ある種の文学ガイドとしても読めます。次々出てくる引用はどれも味わい深く、「名言集・箴言集」と言ってもいい。登場するおびただしい作家名や作品名を見ていると、ここに出てくる本を片端から読み倒したくなりますね。メルヴィルホーソン、ヴァルザー、ホフマンスタールムジールペソアなどなど、気になる名前が目白押しです。
なので、次回は、この作品に出てきた小説を読もうかなと思ってます。さあ、何にしようかな?