『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【6】


読み終えました。「小説を読んだ」という充実感とはちょっと違う、曰く言い難い読後感。何だかいろんな考えが浮かんでは消え、気分が拡散していくような感じ。「書けないことについて書く」ことのとらえどころのなさが、最後の最後まで続きます。


でも、まずは前回の続きから。

クラスメートのルイス・フェリーペ・ピネーダと彼の「放棄した詩のファイル」のことは今もはっきり覚えている。
一九六三年二月の輝かしい午後、ピネーダは部屋着の前ボタンを全部はずし、自分はこの学校のファッションとモラルをリードする支配者になるのだといわんばかりのダンディで挑発的な態度で教室に入ってきたが、あの時のことはいつまでも忘れないだろう。

「わたし」の学生時代の回想です。ピネーダは言わば、知的不良というか、感性のエリートというか、そんな存在です。そんな彼を見て、「わたし」は憧れを抱く。ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』みたいな感じでしょうか。ピネーダは途中で書くのを止めてしまった詩を集めたファイルを持っています。わたしは、そんなところにもシビれちゃったんでしょう。または、こんなシーン。

今でもはっきり覚えているが、彼はポケットからタバコを巻く紙を取り出すと、そこに一編の詩をさらさらと書き――(中略)――、その後でその紙でタバコを巻き、すぱすぱ吸いはじめた。つまり、彼は自分の書いた詩を煙に変えてしまったのだ。

カッコイー。と「わたし」は思ったようですが、僕はこういうタイプはちょっと鼻につくなあ。自己顕示欲が強いというか、「カッコつけんなよ」って言いたくなる。「書くことの放棄」という意味ではバートルビーにつながっているように見えますが、あの「せずにすめばありがたいのですが」という、腰の引けた感じがない。ただのポーズなんじゃないの、という気がしてしまう。
案の定、ピネーダのエピソードは、このあとけっこうワサビの利いた展開を見せます。詳しくは書きませんが、そのことに言及する「わたし」の、意地の悪さが見物です。
さて、「わたし」は職場をクビになってしまいます。でも、「わたし」はさして動揺するわけでもなく、「これで事務所ともおさらばだ」とばかりに文学研究に没頭します。仕事より文学を、恋より文学を、そんな独身者の姿が浮かんでくる。でも、それって本音なのかな? 例えば、ふいに挟まれる短い章には、こんなことが書かれています。この章は、全文を引用しましょう。

今日はよく働いたので、満ち足りた気持ちになれる。日が暮れたので、わたしはペンを置く。黄昏時の夢想。妻と子供たちは隣の部屋で賑やかに騒いでいる。わたしは健康に恵まれお金も十分にある。神よ、わたしは何と不幸なのでしょう!
いったい何を言っているんだ? わたしは不幸ではないし、ペンを置いたりもしない。妻も子供もいない。隣部屋などありはしないし、お金も十分にあるわけではない。それに、日も暮れていない。

ドキッとさせられます。ふいに訪れる底知れない孤独感。「不幸ではない」というねじれた言い回し。仕事もなく、家族もなく、背中にこぶのある中年男。そしておそらく「満ち足りた気持ち」でもない。このあたりから、文章は徐々に夕暮れのような薄暗さを漂わせはじめます。終わりの予感みたいなものが匂ってくる。

わたしは探検家のような人間であり、苦行僧のように禁欲的な生活を送っている。そして、テスト氏と同じようにすばらしい場面、怒りや情熱、悲劇的な瞬間といったものを前にしても高揚しない、小説向きでない人間である「わたしの目に写るのは、消えかかったみじめな光や、退化した状態ばかりだ、そこでは、ありとあらゆる愚かしさが我物顔にふるまい、人間は単純化されて、愚鈍そのものにな」っているように感じている。
わたしは空虚に向かって進む探検家のような人間だ。それだけのことなのだ。

わたしもまた無限を取り込もうとしているように思えるのだが、もしそうだとすれば、その無限のせいでわたしは手をさっとひと振りして自分を消すという逆説的な立場に追い込まれるだろう。もしそうなれば、読者はどうかわたしの眉間に怒りの黒い縦皺が入っているところを思い浮かべていただきたい。それはガッダの偉大な小説『メラルーナ街の怖るべき混乱』の不機嫌で唐突な結末に出てくる皺と同じものなのだ。「娘の真っ白な顔の、眉毛二本の間に縦に刻まれた怒りの黒い縦皺が彼を麻痺させ、反省にみちびいた。いや、むしろ後悔といったほうがいい」

風景についてだが、すべての本にはある現実の風景が対応しているというのが本当なら、この日記の風景はおそらくアソーレス諸島のポンタ・デルガーダにおいて見つかるはずである。
青い光と畑を区切っているアザレアの花のせいで、アソーレス諸島は青い色をしている。ポンタ・デルガーダの魔力はおそらくその遠さにあるのだろう。以前ラウル・ブランダンの『未知の島』という本の中で発見した奇妙な土地、そこが臨終のときの最後の言葉が行き着く場所になるだろう。わたしは世界最後の作家と彼の最後の言葉、その作家の中で死んでいくはずの言葉を見出した。「ここで言葉が終わり、ここでわたしの知っている世界が終わる…」

中心の空虚を目指す探検家は、カフカの『城』のイメージでしょうか。探検家は消えかかった光を見つめています。手のひと振りで自分を消す手品師は眉間に不機嫌な皺を寄せています。臨終の地青い島で世界は暮れていきます。
日記に対応する「現実の風景」として選ばれた場所も、結局は本の中で発見されるというのが興味深いです。筆耕として言葉を書き写し引用の断片を織り上げていく「わたし」。僕にはまるで、言葉によって言葉を消そうとしているように見えます。徐々に、終わりの季節は近づいています。薄れゆく光とともに、フェイドアウトしていくような予感がひたひたと迫ってくる。
このあとも、バートルビー座に連なる、様々な文学者が現れては消えていきます。正体不明のトマス・ピンチョンモルヒネ中毒のギー・ド・モーパッサン、無数の偽名を持っていたトレイヴンなどなど。でも、もういちいち紹介しなくてもいいでしょう。

トレイヴンは身を隠した、わたしもそろそろ身を隠すことにしよう。明日になれば太陽が隠れ、この千年が完全な形で最終的に終わりを告げる。

世界が暮れていく。来たるべき21世紀に向けて書かれた、20世紀最後の文学メモ。沈黙に至るまでの長いお喋り。
最後に登場するのは、とある有名な作家です。彼の最期の言葉にこめられた、運命の皮肉。でも、そこにしか文学の希望はないんじゃないかという余韻を残す、鮮やかな幕切れです。


ということで、『バートルビーと仲間たち』、読了。おつかれさまでした。