『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【5】


ちょっと間が空いてしまいましたが、今回はぐいぐい読んじゃいます。
この小説の特徴として、一本の道筋に沿って進むのではなく、連想ゲームのように次々と文学作品について語られ、寄り道や回り道をくり返すという点が挙げられます。そもそも、本筋なんてものがあるのか、怪しいもんです。ひとりの作家から、無数の作家が連想され、その作品からまた別の作品が呼び起こされる。
語り手である「わたし」は、ホフマンスタールの否定(ノー)の文学『チャンドス卿の手紙』の遺産が、いかに後の否定の作家たちに継承されたかの例を、次々と挙げていきます。出てくる作品はどれも僕が読んだことのないものばかりなので、どんなもんかは判断はできませんが、時代や国籍を超え「裏の文学史」といった感じがして面白い。
さらに、『文学的日食』の作者、ドランから返事が来ます。「わたしの作り話でなく、本当に返事がきたのだ」。まあ、そう言っているのも語り手なので、どこまで信用したものかという話はありますが、ここはひとまず「本当に返事がきた」としておきましょう。ドランは、参考になりそうな文献のコピーをいくつか手紙に同封していました。ヴァレリーキーツランボーマラルメなどなど。これまた、「裏の文学史」「日食の文学史」です。例えば、こんな感じ。

ドランがわたしのために選んでくれたヴァレリーの文章はたしかに『テスト氏』の凝縮された真珠である。「彼は哲学者でもなく、そうしたたぐいの何者でもなかった。文学者でさえなかった。だからこそ、あのように考えつめた、――なぜなら、人は、ものを書けば書くほど、考えなくなるからだ」

予め想定している何かの結論に向かって言葉をまとめ上げていくというのが「ものを書くこと」だとしたら、確かに「ものを書けば書くほど、考えなくなる」ような気がします。それを逃れるためには、どうすればいいんでしょう? 「書かない」というのも、一つの方法です。あとは、「まとめない」かな。ゴールを決めず、連想のおもむくままにメモをしたためていく。この小説の「日記の隅のメモ書き」というスタイルには、そんな意図があるんじゃないかな。
さて、連想ゲーム、似たもの探しは、まだまだ続きます。

ウェイクフィールドバートルビーはともに孤独な人物だが、深い絆で結ばれている。また、ウェイクフィールドはヴァルザーと、バートルビーカフカと密接に結びついている。
(中略)
ウェイクフィールドバートルビーは、話すということは生きることの無意味さと手をむすぶことだと語りかけているように思われる。二人の内には世界に対する根深い否定の感情がある、言ってみればこの二人は定まった住居をもたず、父親の家の階段かどこかの穴に住み着いているカフカのオドラデクのようなものなのだ。

ウェイクフィールドとは、ナサニエルホーソンの「ウェイクフィールド」という短編の主人公。オドラデクとは、カフカの「父の気がかり」という不思議な短編に出てくる奇妙な生き物(?)です。この「父の気がかり」は、すごく面白い作品で、僕も大好きです。
それはそれとしてこの『バートルビーと仲間たち』が面白いのは、バートルビー的であれば、作者も作中人物も区別せず、取り上げているところですね。作中人物と作者が絡まり合い、孤独を反射させ合う。そのようにして、「わたし」は細い糸で裏の文学史の網の目を広げていきます。その網の目の端っこに、この語り手自身も含まれているところが、なかなか興味深いです。

平行する人生。「崩壊した寺院の最後に残った円柱」であるバートルビーと同じように、晩年のメルヴィルニューヨーク市にある今にも倒壊しそうな事務所で働いていた。
バートルビーの生みの親が働いていた事務所から、直ちにカフカが働いていた事務所と「ぼくは文学によって人生から、つまり事務所から排除される」というフェリーツェ・バウアーに宛てた彼の手紙の言葉が思い浮かぶ。この言葉がいつもわたしを笑わせたとすれば――(中略)――先の一文ほど有名ではないが、やはりフェリーツェ・バウアーに宛てた手紙の別の言葉がわたしをいっそう笑わせてくれる。わたしは事務所で仕事をしているときによく落ち込んだが、そんなときあの言葉を思い浮かべると何とか乗り切ることができた。「最愛のひとよ、どこででもあなたのことを考えたいのです、だからこの、ぼくがいま代わりをしている部長の机であなたに書きます」

カフカの手紙はそれほど可笑しいとは思えませんが、それを思い出して笑ってる「わたし」は、どこか可笑しい。これも独身者特有の滑稽さ、かもしれません。そう考えると、「どこででもあなたのことを考えたい」と言いながら、「事務所」から逃れられないカフカにも、その哀しい滑稽さが漂っているような気がしてきます。
ここでのポイントは、「事務所」です。バートルビーの働いていた事務所、メルヴィルの働いていた事務所、カフカの働いていた事務所、「わたし」の働いている事務所…。これらが、透かし絵のように重なっていく。まさに「平行する人生」。無個性であるがゆえに、事務所は偏在してます。そこに、無数のバートルビーたちが働いている。孤独でありながら見えない糸でつながっている、バートルビーたち。その一端に「わたし」も連なっているわけです。この小説の冒頭に出てきた「哀れな独身男としてぞっとするような事務所で働いている」と一節が、バートルビーであることの証明のような気がしてくる。
このあとは、晩年文学を忌避したオスカー・ワイルドが登場します。

「以前、人生を知らないときはものを書いていたが、その意味がわかった今では、何も書くことはない」

妻の死によって書くことの意味を失ってしまったスペインの詩人、フアン・ラモン・ヒメーネスも登場します。

「わたしの最高の作品は自分の作品を後悔していることだ」

そして、またしてもカフカ。またしても、オドラデク!

カフカの作品に出てくる物体としか言いようのないオドラデクがどんな風に笑うか覚えておられるだろうか? オドラデクの笑いは「落ち葉のささやき」のような笑い声だった。カフカがどんな風に笑うか覚えておられるだろうか? グスタフ・ヤノーホがプラハの作家との会話を集めた本の中で、それは「紙のかすかなこすれ合う音を思わせる、いかにも彼らしい、彼ならではの低い声で」笑ったと書いてある。

反射する作者と作中人物。いや、オドラデクは、人物じゃなくて物体のような生き物のような謎めいたモノですが。それにしても、この笑い方はどうでしょう? 「紙のかすかなこすれ合う音」、この控えめな笑い方。バートルビーのおなじみのセリフ、「せずにすめばありがたいのですが」を思い出させます。


ということで、今日はここ(P146)まで。そろそろ、ゴールが近いですが、こういう小説なので、何かしらの結論が出るとは思えないわけで、ゴールって感じじゃないですね。メモ用紙が途切れる、そんな感じじゃないかなと。