『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【4】


バートルビー症候群」に関するメモっていうスタイルも、ちょっとバートルビー的な気がしますね。話をまとめる気配はまったくなく、様々なエピソードの断片が連想のおもむくままにあっちこっちへ飛びながら綴られていく。物語性みたいなものを期待して読むと、おそらく肩透かしを食らうでしょう。
でも、徐々にその断片から、いくつかのテーマのようなものがうっすら浮かび上がってくる。これが読書の醍醐味ですね。例えば、僕が気になるのは「独身者」問題です。「そのあたり、どうなのよ?」と思いながら読んでいくと、ちょいちょい出てくるんですよ、その手の話題が。


ということで、本文中で独身者について言及されてた部分からいきましょう。雨の日曜日、語り手である「わたし」は、カフカの日記に登場する「独身者」について思いをめぐらせます。そして、バートルビー的な独身者を、「スカポロ(イタリア語で独身者を意味する)」と名付け、その人物像についてあれこれ考える。

「わたしはもうここの人間ではない」
これがバートルビーの決まり文句の代わりにスカポロが口にする言葉だ。わたしはこの日曜日に雨が窓ガラスを叩く音を聞きながらひとりそうつぶやく。
「わたしはもうここの人間ではない」スカポロがわたしにそうささやく。
わたしは彼に優しくほほえみかけるが、そのときにランボーの「俺は本当は墓の向こうの人間なのだ」という言葉を思い出す。わたしはスカポロを見つめ、自分の決まり文句を考え出す。そして、彼に向かってささやくように「わたしはひとりぽっちの、独身者なんだ」と言う。とたんに自分がどうしようもなくコミカルな人間に思えてくる。ひとりぽっちにならないための手段を用いて、誰かに向かって自分は孤独だと訴えかけるというのは、どう考えてもコミカルである。

ひとりつぶやいている「わたし」に、ささやく「スカポロ」…? 誰が誰に喋ってるのかわかりづらい文章ですが、つまりはどちらも「わたし」ということでしょう。脳内のスカポロ、幻のスカポロと話をしてるんですね。まるで、自分で自分に手紙を出すように…。このそぶりがすでに独身者、ひとり遊びです。さらに、そこで自分の孤独について語る。何というか、孤独の入れ子
「ひとりぽっちだということを相手に伝えたい」となると、ひとりぽっちでいたいのか、そうじゃないのかよくわからなくなる。これは、「書けない(書かない)ということを書く」っていうパラドックスと似ています。ねじれた自意識、自己言及の迷路…。独身者がコミカルに見えるのは、そこに原因があるように思えますが、どうなんでしょう?
さて、誰とも会わず部屋で一人思索を続けているせいか、語り手である「わたし」の妄想はついつい暴走しがちです。脳内の世界と現実、どちらに軸足を置いているのかよくわからなくなってくる。例えば、こんな感じです。

いつだったか、一夏中ずっと自分は馬だったという考えにとりつかれたことがある。夜になるとその考えが執拗によみがえってきて、まるで馬小屋に戻るように脳裏に浮かんでくる。ぞっとするような経験だった。人間としての体を横たえると、とたんに馬の記憶がよみがえってくるのだ。

ニューヨークでサリンジャーに会った日のことを書こうとしているうちに、最初悪夢だったものが、コミカルなものに変わっていった昨日見た夢に関心が移っていった。
仮病を使っているのが事務所にばれて、首になってしまったのだ。大変な騒ぎが起こり、冷や汗が流れ、耐え難い悪夢に変わったが、首になるという悲劇が結局はコミカルなものに変わった。今回のドラマティックな出来事には一行しか割かないようにしよう。日記に書くにしてもそれぐらいの価値しかないんだと考えた。

ようやくサリンジャーについて書けそうに思ったのだが、新聞の文化欄を開いて何気なく目を通していると、生まれ故郷のウエスカに住んでいるペピン・ベーリョの特集が突然目に飛び込んできた。
まるでペピン・ベーリョがこの家にやってきたような感じがした。
(中略)わたしはもともと受容力があり、何ごとにも開かれているので、とうとう理性と夢の境界線上で信じがたい人物ペピン・ベーリョの訪問を受けることになった。

「自分は馬だった」って、いきなり何を言いだすんでしょう? 唐突すぎて、戸惑いますよ。その他にも、仕事をクビになっことを日記に書くという夢を見たり、新聞で特集されていた人物が訪ねてきて交わした会話を夢想したり…。ひとり遊びしすぎです。「独り者のパーティがわたしは好きなのだ」…。ああ、そうですか。それならいいんですけど、どうもこの人の言葉は額面通りに受け取れない気がしちゃうんですよ。
このあと、引用部でもさんざんほのめかされていた、「サリンジャーに会った」というエピソードが綴られます。もちろん、『ライ麦畑でつかまえて』のジェローム・デイヴッド・サリンジャーのことですよ。サリンジャーは、4冊の本を発表後、きっぱりと筆を折り表舞台から姿を消してしまった作家で、その私生活は謎に包まれています。だから、「サリンジャーに会った」というのは、かなりすごいことのような気がします。
「わたし」は、バスで彼を偶然見つけてしまう。でも、彼がサリンジャーだと、どうしてわかったんでしょうね。「わたし」が勝手にそう思い込んでるだけ、という疑いは拭えません。

サリンジャーの新しい小説、あるいは短編が読めないのなら、このバスの中で話していることを新しくでた彼の作品の分冊と見なせばいいのだとつぶやいた。今も言ったように、わたしは逆境をうまく利用することができる。このテキストのないメモを読む未来の読者はきっとわたしに感謝してくれるだろう。というのも、わたしのノートの中にサリンジャーの未発表の短い作品、あの日彼が語ったことばを書き留めたものを発見して、それに魅了されるにちがいないと考えたからである。

興奮するのもわかりますが、この思い込みの強さ! 「未来の読者はきっとわたしに感謝してくれるだろう」って…。この「わたし」の脳内の暴走っぷりは、かなり笑えます。実際の行動はしないくせに、脳内はあっちこっちへと突っ走る。細かく引用はしませんが、ここ、読みどころですよ。
さらに、書くことを放棄した作家のリストはまだまだ続きます。「板チョコを包んでいた銀紙を床に投げ捨てると、自分はこんな風に、つまりこうして人生を捨てたのだといった」テイヴェ男爵こと、フェルナンド・ペソア

『ストア主義者の教育』は奇妙な本で、読むものを多少とも感動させる。そのわずかばかりのページの中で、大変内気で、女性に縁のなかった――卑近な例を挙げると、わたしもそうなのだが――不幸な男性である男爵は、自分の世界観がどういうものなのか、結局本を書かないことにしたが、もしそうでなければ書いたにちがいない本がどういう内容になるのかを説明している。彼が本を書かなかった理由は、副題と次のような言葉(中略)の中に見いだせる。「知性には限界があり、宇宙はそれを越えて存在するものだということを認めるところに知性の尊厳がある」

書かなかったけれどももし書いたとしたらどんな本になるかを本の中で説明している。ややこしいです。知性に限界があるということを知っていうのは、「無知の知」みたいなことかな? 何度も出てくる、この自己言及のパラドックス。否定の作家は、みんなこれに陥りますね。バートルビーの特徴って言ってもいいんじゃないかな。
そして、またしても出ました、「大変内気で、女性に縁のなかった、不幸な男性」。おなじみ、独身者です。「われわれは女性に対して引っ込み思案である」。うん、そうだと思うけど、何もそんな風に宣言しなくても…。


ということで、今日はここ(P108)まで。ほぼ半分まできました。
ペピン・ベーリョやフェルナンド・ペソアの名前は、この作品の最初のほうにもチラッと出てきてます。前に出てきた人物が、忘れた頃にひょいと顔を出す。カフカランボーも、これまでちょいちょい言及されていました。そうやって、当初「点」で語られていたものが、徐々に網目のようにつながっていくのは、ちょっとした快感がありますね。