『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【3】


このバートルビー症候群に関するメモは日記の隅に書かれているようですが、そのせいか、たまに語り手のプライベートな事柄がチラチラと登場します。これが、妙に気になるんですよね。中年独身男の自意識みたいなものが、引っかかる。今回は、そんなところから始めます。

70年代の中頃、わたしはパリで働いていた。当時知り合ったマリーア・リマ・メンデスのことは今でもはっきりとおぼえているが、彼女は奇妙なバートルビー症候群のせいで金縛りにあったようになり、ひどく不安がっていた。
わたしはいまだかつてないほど彼女を愛していたが、彼女の方は仕事が忙しかったせいで、わたしを仕事仲間としか見ていなかった。

これまでは、著名人を取り上げていたこのバートルビー症候群メモですが、ついに、語り手である「わたし」の身近な人物のエピソードが登場します。彼女は作家志望で、すぐれた才能を持っていましたが、当時流行していた「ヌーボー・ロマン」という潮流に影響を受け、作品を書き進めることができなくなってしまいます。「ミネラル・ウォーターの瓶に貼ってあるラベルの描写だけで原稿用紙を三十枚ほど費やし」、そこから先は書けなくなってしまう。
読んだことないので「ヌーボー・ロマン」ってのはどんなものか今一つわかりませんが、物語性を否定した文学、みたいな理解でいいのかな? まあ、それは置いておくとして、僕が興味を引かれるのは、彼女が「わたし」を「仕事仲間としか見ていなかった」ってくだり。何とも物悲しいじゃないですか。「仕事が忙しかったせい」と語り手は言っていますが、ホントにそうかな? だって、いかにもモテない男の言い訳っぽいでしょ。「彼女にもいろいろあってさあ」とかなんとか。そもそも、ちゃんと自分の気持ちを伝えたのかどうかだって、あやしいもんです。彼はこんなことも、言ってます。

彼女は友人としてとても丁重に扱ってくれたけれども、愛してはくれなかった。嫌っていたわけではないが、愛してはくれなかった。わたしの背中が曲がっているので気の毒に思って、やさしくしてくれたのだ。

これもずいぶんと自意識過剰な感じがしますね。未練がましく「愛してはくれなかった」とくり返し、「気の毒に思って」と予防線を張る。僕も似たところがあるのでそう思うのかもしれませんが、このねじれた自意識が、なんとも味わい深い。何だか、必死で恋愛に興味のないフリをしているように見えます。
さらに「わたし」は、ある時は鏡の前で孤独のヒーローを気取り、またある時は街の人々に「あなたはどうしてものを書かれないんですか?」とアンケートをとったりします。このあたりは、ちょっと滑稽ですね。彼の自意識や問題意識なんて、他の人々にとってはどうでもいいことなのに、妙に大げさで芝居がかっている。まるで、独り相撲。
そして、「わたし」はこんなことまでやってくれちゃいます。

ドランがわたしに手紙を書いてきたというのは作り話だった。『文学的日食』の著者がわざわざ返事をくれたりしないだろうと考えて、ドランの署名を入れて自分にあてて手紙を書くことにしたのだ。

へ? びっくり。自演ですよ、自演。何やってんだか…。しかも、自分に宛てて手紙を書くなんて、淋しすぎるじゃないですか。でも、そもそもドラン自身が他人の名前を騙ってアンソロジーを編んだ人物ですからね。そんな、ドランの名前を騙るってのは、ちょっと面白い。ニセモノののニセモノっぷりをマネするニセモノ、みたいな。
その手紙には、こんなことが書かれています。

あなたのことをとても感じのいい方だと思っているからお教えするのですが、バートルビーの名簿に欠けている人がひとりいます。
あなたの本にマルセル・デュシャンをぜひつけ加えてください。

「感じのいい人」って…。自分で書いているくせに何言ってるんだか。こーゆー自意識が引っかかるんですよ。まあそれはそれとして、デュシャンですよ、デュシャン! 作家ではなく芸術家ですが、「なるほど、そうきたか」って感じです。
デュシャンのよく知られた作品「泉」は、既製品であるトイレの便器にデュシャンが勝手に署名をして、自分の作品として展覧会に出品したもの。まあ言ってみれば、アート界における署名のいたずらですね。そのことを思うと、このニセ手紙もデュシャン的な署名のいたずらのように思えてきます。
また、デュシャン晩年の代表作に「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも」という作品があります。独身者! まるで、この語り手のことを指しているかのようです。バートルビー的人物と独身者は、微妙に重なる部分があるような気がするんですよ。うーん、上手く言えないけど、その非生産性とか。
ドランのフリをした「わたし」は、「真実と作り話を巧みに混ぜ合わせ」るデュシャンを、「偉大なるペテン師」と褒め称えます。曰く、「否定(ノー)の天才」。そして、真実と作り話を混ぜ合わせているのは、語り手である「わたし」も同様です。「書かないことについて書く」というのはパラドックスですよね。それをやってのけるためには、そうしたペテン師気質が必要なのかもしれません。デュシャンのように。「わたし」のように。そして、この奇妙な小説の作者エンリーケ・ビラ=マタスのように。


というところで、今日はここ(P76)まで。ひょっとしたらこの作品も、「信用できない語り手」かもしれません。まったく、一人称小説は要注意ですね。