『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【2】


ひたすら日記に、書けない作家・書かない作家のエピソードをメモしていく「語り手」。これ、ある意味、ブロガーみたいなもんでしょうか? でも、この人、誰に読ませるつもりで書いてるんだろう?


では、続きにいきます。と言っても、何か展開があるわけじゃなく、文学者のエピソード集が続くわけですが。
こんなエピソードはどうでしょうか。作家志望の青年、クレマン・カドゥの話。彼は尊敬する作家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチと夕食を共にした際、感激のあまり一言も口がきけなかったとか。そんな自分のことを、彼は食卓のそばに置かれた家具だと考えるようになります。そしてその結果、作家になりたいという夢が潰えてしまったそうです。
ゴンブロヴィッチ! このブログでも取り上げた、『フェルディドゥルケ』の作者、ゴンブローヴィッチです。しかし、ここでの主役はあくまで、偉大な才能を前にして何もできなくなってしまったカドゥくんです。彼は、やがて画家になり、家具の絵ばかり描きます。そしてその絵にはどれも、「肖像画」というタイトルが付けられる。彼は、人から、作家になるつもりじゃなかったのか、と訊かれると、こう答えます。

「ぼくは自分が家具だと感じています。それに、ぼくの知っている限りでは、家具はものを書きませんから」

私が本を書かないのは家具だからだ、というわけです。これは、滑稽さとある種の痛ましさを感じますね。何も主張しない、モノになりたい。それに、家具は実用的なものです。文学とは大違い。でも、この感覚は、文学を盲信する鈍感さに比べ、遥かに文学的な気がします。
このカドゥくんのエピソードは、フランスの作家、ジョルジュ・ペレックの『自分をつねに家具だとみなしていた作家の肖像』という研究書に出てくるようです。ペレックも、僕が一度は読んでみたい作家の一人。というか、この『バートルビーと〜』を読んでいると、他の小説が読みたくてしょうがなくなる。
まだまだ、この他にも、本を一冊も書かなかった作家の話が次々と出てきます。でも、書かない作家は、果たして厳密な意味で「文学者」と呼べるんでしょうか? そもそも、本を残していない作家について、どうやって知るんでしょう? 「見えないテキスト」を、語り手はどこから集めてくるんでしょう? 出典が記されてはいるものの、それがどこまで真実なのかは、見極めがたいところがあります。ペレックは本当に、そんな本を書いているんでしょうか?
語り手である「わたし」は、バートルビー症候群のリストを充実させるため、協力者を探します。

そんなわけで、今朝わたしは思い切って『文学的日食(エクリプス・リテレール)』の著者であるということしか知らないパリのロベール・ドランに手紙を書いた。上記の本は生涯に一冊しか本を書かず、その後文学を放棄してしまったという共通点を持っている作家たちの書いた物語を集めたすばらしいアンソロジーである。ここに収められている日食の作家というのは、文学的に創造された作家のことであり、したがってバートルビーたちのものであるとされる物語は実を言うとすべてドラン自身が書いたものなのだ。

ん? ちょっと待って。『文学的日食』は、バートルビー症候群の作家のアンソロジーの体裁をとっているけど、実はドランの手によるものだってこと? フェイクだったと? そもそも、『文学的日食』は、実在する本なんでしょうか? 匂います。ぷんぷん匂います。これって、この『バートルビー〜』自体が、どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、わからないということを暗に示しているんじゃないかと。
さらに、書かれていないものについてどうやって書くのか。書くことと書かないことの間には何があるのか。そもそも語り手である「わたし」は、書きたいのか書きたくないのか。様々な疑問が浮かんできます。

テキストのないメモを書きはじめてから、なぜものを書かないのかということについてハイメ・ヒル・デ・ビエドマが書きそうな言葉が効果音のざわめきのように聞こえている。彼の言葉は迷路のように入り組んだ否定(ノー)のテーマをいっそう込み入ったものにすることだろう。「おそらくそのことについて、つまり書かないことについてもっと多くを語る必要があるのだろう。大勢の人がわたしに尋ね、わたし自身もまた自問する。しかし、なぜ書かないのかと自分に問いかけると、必然的に〈では、以前はなぜ書いたのだろう?〉というはるかにやっかいな疑問が生じてくる(後略)」

ハイメ・ヒル・デ・ビエドマって、何者? しかも、そのあと引用される言葉が彼のものかどうか、今一つ判然としません。まさに、迷路。「クレタ人は嘘つきだ」っていうパラドックスのように、賛成の反対なのだっていうバカボンパパのように、頭がこんがらがってきます。
「以前は、なぜ書いたのだろう?」というのも、面白いですね。書かないことよりも、書くことのほうが不思議だと言わんばかり。なぜ書くの? なかなか明解な答えが出せない問いです。語り手である「わたし」は、なぜこのメモを書いてるの? それを読んでいる僕は、なぜあれこれブログに書いてるの? ああ、迷路。
ドン・キホーテやネモ船長の架空の図書館について書いた下りも、面白いです。膨大な蔵書を収めた架空の図書館。もちろん、その蔵書も架空のものです。またしても登場する、このフレーズ。「それらすべての本は世界文学の中で宙づりになっている」。書かれたかもしれない本、これから書かれるかもしれない本。そんな目に見えないテキストを収めた、物語の中の図書館…。

それに劣らず非現実的な感じがするが、実際に存在し、いつでも好きなときに訪れることのできる図書館がある。アメリカのバーリントンにあるブローティガン図書館がそれである。(中略)
ブローティガン図書館には、出版社に送ったものの、撥ねつけられて日の目を見ることのなかった手書きの原稿だけが収められている。つまり、この図書館には堕胎した本だけが収納されているのだ。

ブローティガン図書館は、アメリカの作家、リチャード・ブローティガンを讚えて作られたものだとか。ブローティガンは、僕も大好きな作家です。でも、この図書館、ホントに実在するのかな? だってこれって、ブローティガンの小説『愛のゆくえ(原題は「堕胎」)』に出てくる図書館じゃん。これだって、物語の中に登場する図書館じゃないですか。匂います。ぷんぷん匂う。やっぱり、この作品は、フィクションと実話を意図的に混ぜてるんじゃないかって気がしてきます。たまたま、ブローティガンを読んだことがあったので気づきましたが、他にもこういう仕掛けがいくつも張り巡らされていたりして。


ということで、今日はここ(P46)まで。ほとんどがピンとこない名前ばかりなので、ゴンブローヴィッチブローティガンなど好きな作家の名前が出てくると、ちょっと嬉しくなりますね。