『バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス【1】


バートルビーと仲間たち
ごぶさたしておりましたが、ようやっと更新。読みますよー。読んでる途中で書きますよー。
ということで、2カ月前の予告通り、今回読むのはこれ。
バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス
です。
エンリーケ・ビラ=マタスは、スペインの作家。邦訳は初めてかな。訳者解説を読んだ感じでは、かなりひねりまくったブッキッシュな作品を書く人のようです。
この『バートルビーと仲間たち』も、前情報で聞く限りでは、かなり妙な作品っぽい。「書けない症候群」に陥った作家たちのエピソードをこれでもかと詰め込んだ、エッセイ風の小説だとか。うん、チャレンジしがいがありそうです。


例のごとく、まずは冒頭から。

わたしは女性に縁がなかった。背中が曲がっているが、つらくてもそれに耐えるしかない。身内の人間で近しいものはひとり残らず死んでしまい、哀れな独身男としてぞっとするような事務所で働いている。そうした点を別にすれば、幸せに暮らしている。とくに一九九九年七月八日の今日は、この日記を書きはじめたせいでいつになく幸せな気分にひたっている。この日記はまた目に見えないテキストに言及したメモ帳でもある。ページの下に書き込んだそれらのメモを通して、わたしがバートルビー的な人間の足跡をたどっていることが証明されればと期待している。

いきなり、「女性に縁がなかった」とか、「背中が曲がっている」とか、身内は「ひとり残らず死ん」だとか、「ぞっとするような事務所で働いている」とか、ネガティブなことを書き連ねています。孤独な世捨て人、といった印象ですね。
彼は、25年前に小説を一つ書いていますが、それ以来筆を折っているとか。その結果、バートルビーのひとりになったと。「バートルビー」とは、「心の奥深いところで世界を否定している人間」のことで、ハーマン・メルヴィルの小説に登場する「代書人バートルビー」からきているそうです。
例えば、質問に答えるよう要請されたり、何かを頼まれたりするとき、バートルビーはこう答えます。

「せずにすめばありがたいのですが」

なるほど、「やりませんっ」じゃないんですね。拒絶ってのも、ある種、積極的な行為ですからね。つまり、その手の積極性をも否定しているわけです。だから、何だか受け身なもごもごとした言い方になる。語り手である「わたし」は、何故かこのバートルビー的な人物に関心を持っていて、それを「バートルビー症候群」と名付け、この病に侵された文学についてメモをしたためようとしています。

この病におかされたために、何人もの作家が厳格な文学意識を持っているにもかかわらず(というか、おそらくはそれ故に)何も書けなくなってしまう。一、二冊本を書くのだが、やがて執筆から遠ざかったり、何の問題もなく書きはじめたのに、ある日突然文学的な意味で金縛りにあったようになって永遠にペンを捨ててしまうのだ。

書けない作家、書かれなかった文学…。冒頭に出てきた「目に見えないテキスト」とは、それを指しています。自分の考えを発表するということに、どうにも積極的な意味を見出せない作家たち、ということでしょうか。「表現」ってもののいかがわしさに自覚的というか…。でも、無自覚な作家ってもあまり信用できない気がしますね。例えば、「エラソーなこと言うな」ってのを、エラソーな言い方で書いたら台無しなわけです。じゃあ、どうすればいいのか、ってところで、作家は逡巡しもがくんじゃないかと。だから、「せずにすめばありがたいのですが」みたいな言い方になったりするんじゃないかと。
これ、けっこう文学の根底にある問題のような気がします。作者の言葉を借りれば、「否定(ノー)の文学」を探ることで、「来たるべきエクリチュール」に通じる道を探そうということのようです。まあ、何だか、わかったようなわからないような話ですが、まだ序文にあたるパートなので、このあと、おいおいわかってくるでしょう。
ということで、以下、「否定の文学」「バートルビー的な人間」についての、覚書のような断章が続くことになります。


まず、登場するのが、ローベルト・ヴァルザーという作家。この作家、「筆耕」の仕事をしていたそうです。筆耕ってのは、清書係りみたいなもんでしょ。他人の言葉を書き写す仕事。つまり、バートルビー同様「代書人」というわけです。さらに、語り手は筆耕だった別の作家、フアン・ルルフォについても書いています。ルルフォは、「どうしてもっと書かれないんですか」って訊かれると、こう答えていたそうです。

「実はぼくにいろいろ話を語って聞かせてくれていたセレリーノおじさんが亡くなったんです」

つまり、自分の小説はおじさんから聞かされたものだと。なるほど、代書人らしい答えですね。自分が書いているものは、自分の言葉ではないという認識。これが、バートルビー症候群「代書人部門」の特徴です。
それに、他人の文章を書き写すのは、実はけっこう楽しいんですよ。僕も、こうやっていちいち引用するのが、楽しくてしょうがない。自分以外の言葉を自分の手を通して形にしていくというのは、ちょっとした快感みたいなものがあります。
さて、バートルビー的人物の例はまだまだ続きます。英語を学んだせいで書けなくなったと言うスペインの作家や、妄想や幻覚を見過ぎてしまうあまり書けなくなったランボーソクラテスなどなど。そんな調子で、「わたし」は、連想のおもむくままに、次々と書けない作家のエピソードを記していきます。
おびただしい数の文学者や文学作品の固有名詞が出てきますが、僕はそのほとんどがわかりません。ヴァルザーは、春日武彦のエッセイで名前を見たことがあるなあ。ルルフォは、そのうち読んでみたいと思ってた作家の一人だったなあ。とその程度の認識ですが、それでもまだいいほうで、まったく聞いたことのない名前の作家やら書名やらもボッコボッコと登場します。まあ、知らなくても読めるようには書かれてるんですが、知ってたらもっと楽しめるのかもしれません。
あと、ところどころに垣間見られる、語り手の日常や人物像も面白い。唯一の友人フアンと電話で話しをするシーン。

彼と話しているうちになんだか時間をむだにしているような気がしてきたので、あわてて電話を切ると、自分のメモに戻ることにした。フアンとむだ話をするために鬱病のふりをしたわけではない。社会保険局でひどい鬱病にかかっているふりをして、三週間の罹病証明をもらっていた(八月に休暇を取っているので、九月までは事務所へ行かなくてもいいはずだ)。これで、心ゆくまで日記に打ち込むことができる。空いた時間をバートルビー症候群に関する愛しいメモに好きなだけかけることができる。

って、仕事サボってたんか! しかも、仮病の鬱病! いくら「ぞっとするような事務所」とは言え、何やってんだか…。唯一の友人に対して、「時間をむだにしている」ってのも随分な言い草。一方で、「愛しいメモ」なんて言っちゃって、ちょっとバランスを欠いてるように見えます。何故にそこまでバートルビー症候群に固執するんでしょう?

マルセル・ベナブーは『なぜわたしは一冊も本を書かなかったのか?』の中でこう述べている。「読者よ、とりわけ私がこれまで書かなかった本が純粋な無であると考えないでいただきたい。それどころか(ここでその点をはっきりさせておきたいのだが)、それらの本は世界文学の中で宙づりの状態になっているように思えるのである」

文学の宇宙に宙づりになった見えないテキスト。そこに、重要な何かがある。それが何かはわかりませんが、何かがある。それが、バートルビー症候群にこだわる理由のようです。その証拠に、これとそっくり似たフレーズを、語り手が最初の章の地の文で使っています。ベナブーの言葉を、まるでそのまんま書き写したかのように…。
ちなみに、この「愛しいメモ」は、日記のページの余白に書かれています。これ、ちょっと引っかかりますね。日記と、そのメモは別物ってことなのかな? だとすると、今僕が読んでいるこのテキストは、果たして日記なのか? それとも、メモのほうなのか? 「余白」とか「日記」っていうスタイルは、どこかしらバートルビー的な気がしますが。


ということで、今日はここ(P20)まで。まだほんのさわりですが、気になることがいろいろ出てきますね。もうちょっと読み進まないと、何とも言えませんが。