『ナイフ投げ師』スティーヴン・ミルハウザー【4】


いよいよ残り3編、いきます。


「パラダイス・パーク」
この短編集の中で最も長い作品。1912年、コニー・アイランドに作られた遊園地「パラダイス・パーク」が、1924年に火災で焼失するまでの変遷を、例によって報告書のようなタッチでまとめた作品。ストーリーと呼べるほどのものはありませんが、奇っ怪な遊園地のアトラクションや、その謎めいた構造、次々に繰り出される大衆文化についての考察などなど、これぞ、ミルハウザーといった感があります。かなり濃いです。
オープンしたパラダイス・パークのアトラクションは、名前を見るだけでもそそるものがあります。「カタルゴの破壊」「燃える摩天楼」「サイドワインダー」「悪夢鉄道(ナイトメア・レイルウェイ)」「心中の崖」などなど。スリルに満ちた興奮が味わえそうじゃないですか。
さらに、この遊園地の様々な仕組みも非常に興味深いものがあります。例えば、歓楽施設につきものの娼婦やギャングたちをいかに遠ざけるかという問題。そこから導き出される対処法は、なかなかユニークです。

どの遊園地も、全体を壁で囲み、警備員を雇うことで、以前にはありえなかった統制が可能になったわけだが、鋭敏にもパラダイス・パークの支配人は、まさにこの点に新たな問題を見てとった。すなわち、閉ざされた場で新奇かつ安全な快楽が提供されることによって、すべてがあまりに無難で意外性を欠くものになってしまう恐れ、全体がお上品なビアガーデンと化してしまう恐れが生じる。暴力性や悪徳が排除されることによって、ひそかな願望が生まれるのだ。この問題は、そうした暴力性や悪徳を演じるべく特別に訓練を受けた一八〇〇人の俳優を雇うことによって見事に解決された。かくして遊園地のアトラクションのなかには、薄暗い酒場、怪しげなナイトクラブ、いかがわしい店が並ぶ曲がりくねった裏道も加わることになり、来園客はそこで娼婦、スリ、殺し屋、酔った水夫、ポン引き、詐欺師、ごろつきと肩を並べて、卑猥な言葉、ショッキングな衣装、定期的に発生する恐ろしい殴りあいなどを満喫できるというわけだ。

背徳の魅力。確かに、悪の匂いのするものは大衆を強く惹きつけるでしょう。しかし一方で、危ない目に合いたいくないというのもまた、大衆の欲求の一つです。この遊園地のオーナーは、そこに目をつけ、「安全な刺激」を娯楽として提供したというわけです。
「安全な刺激」とは倒錯した欲望のように思えますが、そもそも、遊園地のアトラクションの多くは、この「安全な刺激」によって成り立っているとも言えます。ジェット・コースター然り、お化け屋敷然り、「ナイフ投げ師」然りです。その意味では、このオーナーは、遊園地という場所の魅力をしっかりと掴んでいる。
この背徳や刺激を提供するという傾向は、パラダイス・パークが改装されるたびにエスカレートしていきます。ミルハウザーおなじみのパターンですね。当初、空へ向けて二層になった構造が話題となっていたパラダイス・パークですが、改装によって最初に作られたのが、何と、地下遊園地です。
この地下遊園地のアトラクションは、「遊園地におなじみの出し物をユーモラスに――あるいは悪魔的に――歪めたもの」だとか。ミルハウザーは、それらを惜し気もなく次々と列挙していきます。ここは、読みどころですよ。

たとえばメリーゴーラウンドに混じった純白の一頭はとびきりの暴れ馬だったし、ジェットコースターは高いカーブを回る最中にレールを離れて六メートルの空間を越え別のレールに飛び移ったし(実際のところ車両はコースター全体の枠組に取り付けられた蝶番(ちょうつがい)付きの梁(はり)によって下から支えられていたのだが、少なくとも乗っている人間には飛ぶように見えた)、びっくりハウスの鏡は人を恐ろしい畸型の怪物に変え、観覧車は動きがピークに達したところで固定された土台からじわじわ外れていき、レールに沿って(一番下にあるボックスに危害が及んだりすることはない程度に)前後に転がった。

すごいすごい! この妄想力、たまりませんね。メリーゴーラウンドやびっくりハウスなど、比較的穏やかなアトラクションに不穏なものを紛れ込ませているわけです。そして、ジャンプするジェット・コースター! 転がる観覧車! スピルバーグの『1941』を思い出しますね。乗ってみたいなあ、この観覧車。もちろん、「安全な刺激」であることが前提条件ですから、さりげなく()内で安全性を強調しています。

でも、刺激を求め出したらキリがありません。これ以降、パラダイス・パークは、地下への指向を強めていきます。人工の自然や異国の風景、役者たちによるスリリングなイベント、驚くべき乗り物に、精巧なミニチュアのジオラマ…。安全性のエクスキューズもやがてなくなり、遊園地はさらに地下へ、さらに薄暗い倒錯の世界へと降りていきます。
この遊園地のユニークな特徴の一つに、秘密主義があります。オーナーであるサラビーという人物の正体は謎に包まれているし、改装前にその内容は一切漏らさないという徹底ぶり。中でも僕が興味深いのは、遊園地の宣伝写真は一切撮影させず、地図や見取り図も公表しないという点です。かつてディズニーランドが航空写真を撮らせなかったという話を思い出させますね。

娯楽産業の世界にあっては、利益が成功の尺度となる。だが同時に、もっと形の見えにくい尺度もそこにはある。評価、風望、名声などと呼んでもいいかもしれないが、要するにそれは、個的な夢想を公的な事実にすることに世間がどこまで同意してくれるかの度合にほかならない。百貨店経営で財を成し、比類なき遊園地を次々に開いてその財を何倍にも殖(ふ)やしてきたサラビーは、これまでずっと、自分の夢と霊感を世間が後押ししてくれているという気持ちを持つことができた。自分の夢想を、自分の外の、自分より大きなものが承認し、実行可能にしてくれているという思いが持てていたのであり、そしてその大きなものとは、すなわち大衆のことである。具現化された彼の夢のなかに、自分たち自身の漠とした夢を見てとる人びと、自分たちが愉しんでいるしるしとして彼に金を浴びせる人びと、ある意味でサラビーがまさにこの人たちに代わって夢を見ていると言っていいあまたの人びとのことである。

サラビーの妄想に大衆が乗っかったのか? 大衆が潜在的に秘めている欲望をサラビーが掘り起こしたのか? 僕は、両方じゃないかなと思います。サラビーは、大衆を代弁しているようでもあり、それに熱狂する大衆はもっともっととサラビーを動かしているようにも思える。キーワードは「夢」です。まるで、両者の欲望が結託して同じ夢を見ているようです。
ひとつの夢を見るこの大衆こそ、ミルハウザー作品に頻出する「私たち」ですね。パラダイス・パークに関する記述は、記録写真がない故に、終幕が近づくにしたがって徐々に伝説、風聞、噂話の類が混じるようになります。まるで、大衆の夢が、悪夢も含む夢が遊園地を作っているかのように思えてくる。地上の遊園地は次第に現実にさらされさびれていきますが、地下の遊園地は夢のように怪しく混沌としていくのです。
いやはや、見事です。詰め込まれたイメージの量が半端じゃありません。次々に出てくる夢のような光景に、目が回るほど。この作品自体が、めくるめく遊園地のようです。堪能しました。


「カスパー・ハウザーは語る」
カスパー・ハウザーってのは、19世紀ドイツのニュルンベルクの町に現われた謎の青年。それまでどこかに幽閉されていたらしく、言葉が喋れなかったり、五感や骨の発達が通常とは違っていたそうです。そして、最後は何者かに暗殺をされて謎の死を遂げたとか。
これまで僕が知っている限りでは、種村季弘がその生涯について本を書いているほか、ヴェルナー・ヘルツォークが映画化しています。あと、野田秀樹も『当り屋ケンちゃん』(小説)『小指の思い出』(戯曲)で、カスパー・ハウザーを取り入れてましたね。
そしてミルハウザーのこの作品は、そのカスパー・ハウザーが、大衆の前で語った演説という設定で描かれています。彼がいかに世間から隔絶されていたかは、演説のこんな部分からも窺えます。

ある日、いつも優しくしてくれた番人が、私が見たことのない物を持ってきました。それは一種の棒でしたが、私にはよく見えませんでした。世界をろくに知らぬ身ゆえ、物をはっきり見分けることも私にはまだできなかったのです。ですがとにかく、その棒のてっぺんには明るい、キラキラ光る物がくっついていて、それが私を喜ばせ、私の心をすっかり惹きつけました。わが番人はそれを食卓の上に置きました。興奮と歓喜の念とともに私は片手を伸ばしました。棒は私に噛みつきました。私はギャッと悲鳴を上げ、あわてて手を引っ込めました。(中略)私は何を間違ったのでしょう? なぜ棒は私を傷つけたのでしょう? ああ、棒です、棒です。紳士淑女の皆さん――ご存知でしょう、その棒のことを? ですが私は、恐怖と痛み以外は何も知らなかったのです。

この棒は当時の人びとにとっては日常的なあるものだったんですが、カスパーはそれを知らなかったがゆえに「噛みつかれた」と思い込んでしまったんですよ。それは何かは伏せておきますが、もちろん僕らもよく知っているものです。
カスパー・ハウザーには、生物と非生物の区別がつかないなど、こうした逸話がいっぱいあるようです。そういった感覚の不思議や、彼の生涯の謎、無垢な野生児というイメージは、ある種のロマンみたいなものを感じさせ、僕らの心を強く惹きつけます。
ニュルンベルクの人々を前に、カスパーはこう語ります。

あたかも私という存在が夢でしかないように、途方もない夢でしかないように思えるのであり、そししてそれはニュルンベルクの紳士淑女の皆さん、皆さんの夢なのです。

私は一個の謎であり、解くことのできない難問です。これはつまり、皆さんが謎を必要としていらっしゃるということなのでしょうか?

またしても、大衆はひとつの夢を見ています。「謎」という刺激に満ちた夢。でも、夢そのものに、謎そのものになってしまった人生とは、どういうものなんでしょう? 彼が望むのは、どんな人生なんでしょうか? このあと、暗殺されるという歴史的事実を踏まえて読むと、ちょっと切ないものがあります。


「私たちの町の地下室の下」

私たちの町の地下室の下、はるかずっと下に、くねくねとよじれ、交差しあう無数の通路から成る迷宮が広がっていて、粗い石の階段で地上につながっている。

はい、また出てきました「私たち」。この町の人々は、地下通路の魅力に取り憑かれていて、ことあるごとにそこへ降りていきます。そして、その通路とはどういうものなのか、何故それに惹かれるのか、この通路への様々な批判に対してどう答えるのかなどが、おなじみの断章スタイルで綴られていきます。「バーナム博物館」の地下通路版、といった感じですが、もう少し観念的で哲学的かな。地下の描写よりも、その意味みたいなものにページが費やされています。ちょっとボルヘスの短編を思わせるところもあったりして。
例えば、いっそ地上の町を捨てて地下通路に移り住めばいいのに、という意見に対する反論は、なかなか面白いです。

こうした極論をあざ笑うのはたやすいが、否定するのは容易ではない。私たちはみな通路に深い愛着を覚えているのであり、いざとなれば町のない世界は思い描けても、通路のない世界は思い描けないのである。したがって、もっとも強力な反論は、町を擁護するものでもなければ地上世界の生活の良さをたたえるものでもなく、あるいは地下で暮らすことの非現実性を事細かに説明するものでもない。それはほかでもない、もし本当に上の世界を去って通路に引っ越したなら、きっと一週間と経たぬうちに、暗い通路の下の闇に、私たちは新しい、より深い通路を掘りはじめるにちがいないという絶対の確信である。

こういうパラドックスは、僕、好きですね。地下に住んでしまったら、そこは地上と変わらなくなってしまう。「地下室」だけじゃ飽き足らず、「地下室の下」を求めてしまう。つまり、日常生活の下にもう一つの世界が必要だってことですね。ミルハウザー作品の「私たち」は、いつも現実と切り離された薄暗い夢を欲しています。「パラダイス・パーク」は、想像力を地下へ深く深く降ろしていく作品でした。そしてこの作品は、その地下に対する思いの必要性を語っているとも読める。

降りていくことの高揚はすでに語ったが、だとすれば第二の高揚も語らねばならない。

第二の高揚、これが地下世界の必要性を解く鍵です。それが何かは、読んでのお楽しみ。


ということで、『ナイフ投げ師』読了です。