『ナイフ投げ師』スティーヴン・ミルハウザー【3】


ミルハウザー作品に特徴的な人称といえば、一人称複数の「私たち」じゃないかな。まあ、「我々」でも「僕ら」でもいいんですけど、英語にすると「We」ですね。この「私たち」は、『イン・ザ・ペニー・アーケード』にも、『バーナム博物館』にも、以前読んだ『三つの小さな王国』にも出てきましたが、『ナイフ投げ師』には特に頻出します。「ナイフ投げ師」「夜の姉妹団」「新自動人形劇場」、さらに今回読んだ「協会の夢」と、語り手はまるで集団の意識を代弁するかのように「私たち」と名乗ります。これ、ちょっと気になりますね。まるで、ナイフ投げや百貨店などの強烈な魅力に取り憑かれ、語り手が個々の顔を失い集団化してしまったかのように思えてくる。
ということで、本編にいきます。


「月の光」

十五歳になった夏、僕はもはや眠れなくなった。

この作品は、こんな風に始まります。いいですねえ。眠れない原因はよくわかりませんが、語り出しとしては申し分ない。そして、眠れない少年は、ある月の夜、そっと外へと出掛けます。

玄関で僕はしばしためらい、それから、暖かい夏の夜に足を踏み出した。
空は僕を驚かせた。それは濃い青、魔法使いの帽子の青、古い総天然色映画の夜空の青、古いパズルの箱に刷られたスイスの山岳地帯の深い湖の青だった。カメラバッグに入れた革袋から父さんが銀色の輪を取り出して僕に渡したことを僕は思い出した。宙にかざしてみると、濃い青のガラスの向こうに、今夜と同じ濃い青の世界が見えたのだった。僕はいきなり家の影から出て、月の白さのなかに入っていった。月は夜の太陽のようにひどく明るく、僕はそれをまともに見られなかった。月の烈しい白さは熱いように見えたが、僕はなぜか、どこだったかろくに覚えていない店に置かれたアイスクリーム貯蔵庫の内側にたまった、ギラギラ光る分厚い霜を思い浮かべた。キャンディーやアイスクリーム・カップが氷の結晶に包まれ、冷たい空気が湯気を立てている。

いいなあ。青い夜空と白い月光。その青さを説明するのに、青く染められたものを例えに使っているところが、面白いですね。逆でしょ、普通。魔法使いの帽子って青いんでしょうか? 古いパズルの箱なんて具体的に言われても、モノを見ない限りどんな青かわからないし…。さらに、カメラのフィルターから、アイスクリーム貯蔵庫にまで及ぶ連想が、いちいち具体的なのもいいですね。まるで目に浮かぶよう。
こうやって連想が浮かんでは消えていく感じ、わかるなあ。僕も深夜徘徊は大好きなんですが、そういうときってぼんやりいろんなことを思い浮かべながら歩いてるんですよね。まるで、ここにいながらここにいないような感覚というか、夜道を歩きながら、脳内を歩いているような。
さて、少年が向かった先は、同じクラスの気になる女の子の家でした。そしてその家の裏で、こんな光景を目にします。

まぶしい月光の下、まるで夏の昼間であるかのように彼女たちはウィフルボールをしていた。ソーニャがバッターだった。ほかの三人も、僕が知っている同じクラスの子たちだった。ピッチャーはマーシャ、一塁でリードをとっているのはジニー、僕からほんの何歩かのところで外野を守っているのはバーニス。月光の下、彼女たちはみな、僕が見たこともないオーバーオール、短パン、トレーナー、男物のシャツといった、まるで男の子をめぐる芝居をやっているみたいな格好をしていた。バーニスは野球帽をかぶって上着を腰に巻きつけていた。学校での彼女たちは、膝まであるスカートにきちんとアイロンをかけたブラウス、革ベルトのついた夏物の薄いサマードレスといった服装をしていた。女の子=男の子たちの姿は、何か秘密の儀式にまぎれ込んだかのように僕をわくわくさせた。

これは魅力的! 「ウィフルボール」ってのがどんな遊びなのかよくわかりませんが、三角ベースみたいなものかな? まあ、野球に似た遊びなんでしょう。夜更けに女子だけでこんな遊びをしてたなんて! この秘密っぽさがたまらなくいいです。男の子にとって、女の子はいつだって神秘、女子同士でしか見せない顔を持っている。そんな場面に、出くわしちゃったわけです。
普段目にしたことがない格好をしてるっていうのもポイントでしょう。15歳男子としては、そりゃあグッときますよ。ボーイッシュに振る舞えば振る舞うほど、その隙間から見える彼女たちの「女の子性」みたいなものが際立ちます。そこにまた、ときめいたりして。うーん、甘酸っぱい。
ラストは、ちょっと予想外の方向へ進みます。この終わり方はいいですね。これぞ、月光マジック。静かな昂揚、ひんやりとした興奮みたいなものを感じます。


「協会の夢」

協会が百貨店を買収したことで、私たちは不安と、ひそかな希望とに包まれた。百貨店は私たちの都市で最後まで残った昔ながらの大商店であり、物心ついたころからずっと、私たちはその年代物のエスカレータに乗り、色あせた店内をさまよってきた。過剰、驚異、そういったものをめぐる私たちの観念そのものが、無数の棚に並ぶ商品が茶色い彼方まで連なり、十二階の高さを貫いて伸びている光景によって形成されてきたのである。

冒頭部。おおっ、と思いますね。「過剰、驚異」とは、ミルハウザーのテーマと言っても過言じゃないでしょう。そうした観念が、百貨店によって形成されたと。とくれば当然、この作品は、おびただしいモノたちが並べられた、ミルハウザーのショーウィンドウ、ミルハウザーの陳列棚、ミルハウザーのカタログになるに決まってます。
買収された古い百貨店は、協会の手で改装されます。そして、あとはひたすらこの新しい百貨店の魅力が語られていく。そこにはどんな仕掛けが施され、人々はどんな風に夢中になっていったのか。って、これは言わば「バーナム博物館」の百貨店版ですね。実際、この百貨店は、バーナムの博物館並みに奇妙でいかがわしい。そもそも「協会」ってのが、何の協会なのか一切語られないというのが、怪しいです。

おそらくは、新しい百貨店がとにかく大きくて、プラザ、カルチャーエリア、サービス、娯楽の数も膨大であり、地上十九階・地下四階にわたって並べられた商品が私たちの神経系を圧倒したせいなのだろう、百貨店じゅうに、一種の遊び心、高揚とした創意とも言うべき精神をみなぎらせた新しい売り場が点在していることに私たちははじめ気づかなかった。たとえば造園売場に突如現われた凹室(アルコーブ)には、小川、水たまり、滝を売る店が設置されていたし、十四階の男物帽子売場と小間物売場のあいだには洞窟やトンネルを売る陰気な売場があって、洞窟の壁にしつらえた蛍光灯が岩石の累層(るいそう)に紫がかった光を投げ、小綺麗なラベルを貼った鍾乳石、流れ石(フローストーン)、洞窟珊瑚、くねくねよじれた枝状鍾乳石(ヘリクタイト)から値札が下っていた。

一箇所明らかな誤植があったので、直して引用してます。で、小川? 洞窟? そんなものまで陳列されてるの? ちなみに、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』にも、小川が売られてるシーンがあった気がしますが、こういったありえない光景を想像するのは楽しいですね。この百貨店では、これら奇妙な売り物が、帽子などの日常品と何ら区別されずに並んでるんですよ。実際、商品が列挙されるシーンには、何食わぬ顔でありえないような売り物がたくさんまぎれ込んでいます。

これら新しい売場は、慣れ親しんだ世界への異物の侵入どころか、その親しい世界の延長にほかならない。考えてみれば、この世にあるものすべてを売り物として差し出すのが百貨店の本質ではないか? 世界はひとつのバザールである、それが百貨店のような場所のひそかな前提ではないか?

そう、すべてを売り物として並べる、これぞ百貨店イズムです。商品という観点から考えれば、ありとあらゆるものを並列に並べることができる。帽子の隣に洞窟があってもおかしくない。消費社会の甘美な誘惑。ただ面白いのは、この作品では、商品はさんざん列挙されているのに、語り手が買い物をするシーンは出てこないこと。どうも、何かを買っているようには見えないんですよ。他のミルハウザーの作品同様、ショーウィンドウを、陳列棚を、カタログをただただ眺めるだけ。
ミルハウザーにとって重要なのは、売り買いではないんだと思います。商品という名目の下にあらゆるものを並べること、こっちのほうが大事なんじゃないかな。もしも「世界はひとつのバザールである」ならば、すべてが陳列の対象になるわけです。その膨大な量と豊富なバリエーション。その魅力を、ミルハウザーは既に作品の冒頭で明かしていました。「過剰」と「驚異」。ショーウィンドウを眺めるように世界を眺めるとき、そこはワンダーランドになるのです。


「気球飛行、一八七〇年」
普仏戦争中、プロイセン軍に包囲された地を離れフランスを目指して気球で飛び立った兵士を語り手に、見下ろす地上の様子や戦況がひたすら語られていくという作品です。
「空飛ぶ絨毯」同様、上空から見下ろした光景の描写は魅力的です。でも、この作品のポイントは、高く昇るにつれて、主人公の精神が不安定になっていくところでしょう。地上が見えなくなる頃には、主人公はこの空の青さを、「青い虚無」と呼ぶようになります。そして、ずっとこのまま空に浮かんでいたいという欲求が忍び込んでくる。

この突然の、説明しがたい欲求は、意志の弱まったしるしではないだろうか、内なる傷の癒えぬしるしでは? 空にとどまること、見下ろすこと、漂うこと、屈服すること、夢見ること……これは無関心と結託し、内なる裂け目に力を貸すことではないだろうか? したがってそれは――つきつめればそう結論せざるをえない――プロイセン側にひそかに与(くみ)することにならないだろうか? 空を信頼してはならない。気をつけなくては。

飛翔への欲求と地上を離れていく不安。そして境界を越えてしまうことへの誘惑。これは、ミルハウザー作品に登場する天才芸術家たちのバリエーションではないでしょうか。彼ら天才たちは、芸術の高みを目指し、いつしか境界を踏み越え、とてつもない場所まで行ってしまいます。この作品の兵士は、それとよく似た空の境界にいるんじゃないかと。
地上を離れた高みへ! もっともっと高く! そんな欲望の魅力と危うさについて、ミルハウザーは何度も描いてきました。登場人物も読者の僕も、ミルハウザーの巧みな手招きに乗せられてこう思う。境界を踏み越え、限界を見たい。でも、高いところは危ないんですよ。信頼してはならない。気をつけなくては。


ということで、今日はここ(P193)まで。残すところあと3編です。