『ナイフ投げ師』スティーヴン・ミルハウザー【2】


こうやって短編をまとめて読むとよくわかりますが、ミルハウザーはくり返し似たようなモチーフの作品を描く人のようです。例えば、「ナイフ投げ師」の驚異の技は「幻影師、アイゼンハイム」の不気味なイリュージョンを思わせます。そして、今回読んだ、「空飛ぶ絨毯」は「雪人間」同様少年の日のワンダーを描いており、「新自動人形劇場」は何と「アウグスト・エッシェンブルク」同様、からくり人形師技師の話だったりします。
でも、その前に、あまりミルハウザーっぽくない短編「出口」から。


「出口」
人妻と付き合っている主人公のハーターは、彼女の部屋で別れを切り出していたところ、帰ってきた夫とはち合わせしてしまいます。そして、そのあと、どこか歯車が狂ったような不条理な展開に巻き込まれることになります。
このハーターって男が、なかなかイヤなヤツで、僕はどうにも好きになれませんでした。例えば、女の夫が華奢な小男だったのを見たハーターの思考の端々に、この夫をバカにしてる様子が窺えたりします。そして、夫さえ現われなければ、「彼女の人生から、一日の終わりに靴下を脱ぐみたいにあっさり抜け出せたはずなのだ」なんて思ったりするんですよ。靴下! ひどい言い草です。

ハーターは目下三十歳、ふわっとした大柄の男で、肩は広くて丸く、顔には少年っぽさが残っていた。単色のドレスシャツを、袖を一度だけ折り返して着るのを好み、ラングラーのブリウォッシュのソフトジーンズ、厚手の靴下に履き古しのローファーという格好を好んだ。物騒な地域のはずれにあるコミュニティ・カレッジで歴史(古代史、近代史、アメリカ史)を教え、怠惰で気のいいテニスをプレーした。
これまでそれなりの女性とつき合ってはきたが、みな結局は物足らず、その物足りなさもいつも同じで、要するに、彼を十分わくわくさせてくれない、彼が焦がれるたぐいの狂熱まで引き上げてくれないということに尽きた。

くだけてるように見えてコンサバティブなファッションセンスに、すべてが集約されているような気がします。常に大多数側に身を置いていて、それ以外の人間なんかいないかのように振る舞うタイプ。って、勝手に決めつけてますが、不遜というか、自分が間違っている可能性ってのを勘定に入れないタイプのように思えるんですよ。
女性との付き合い方も、かなり身勝手です。最初はいいけど、相手のことを知るにつれ興味をなくし、別の女性が気になり始める。「彼を十分わくわくさせてくれない」って、何様ですか? 僕は、女性にだらなしない人物は必ずしも嫌いじゃないんですが、こういう偉そうなな男はイヤですね。
後半には、こんなシーンもあります。

暗い玄関ポーチに出ると、自分の息が羽毛のように立ちのぼるのが見えた。鳥の羽根を思わせる、ひ弱そうな息を目にしたことで、何だか寒くなってきて、いくぶん奇妙な気分にもなってきた。自分ほどの体格の人間なら、息ももっと確固としているべきだという気がした。

ああ、そうですか。でも残念。何でも自分の思う通りにはなるわけじゃないんですよ。


「空飛ぶ絨毯」

子供のころの長い夏の日々、いろんな遊びがぱっと燃え上がっては眩(まばゆ)く焼け、やがて永遠に消えていった。夏は毎年気が遠くなるほど長く、いつしか一年よりも長くなって、じわじわと僕たちの世界の外まで広がっていったが、と同時に、その巨大に広がった一瞬一瞬、夏はいまにも終わろうとしていた。夏とは何よりもまずそういうものなのだ――終わりの予感でもって僕たちをからかい、休みの終わりがうしろ向きに投げかける長い影のなかへつねに入っていこうとしている。そして、僕たちの夏はつねに終わりかけていたから、僕たちの夏はいつまでも続いたから、何をして遊んでも僕たちは苛々と落着かず、新しい、もっと強烈な遊びを追い求めた。

冒頭部分。これだけで掴まれますね。心躍る夏の熱狂と焦燥感。何だか、ビーチ・ボーイズのどこか陰りのある眩さを思わせます。
そしてその夏、少年たちの間でぱっと燃え上がった遊びが、「空飛ぶ絨毯」でした。そう、アラビアンナイトに出てくる、あの魔法の絨毯ですよ。この作品が素晴らしいのは、それを不思議な出来事として描くのではなく、ビー玉やヨーヨーのように、よくある子供たちの流行り遊びの一つとして描いていること。この世界では、空飛ぶ絨毯は実在するものらしく、親が子供に買い与えたりするんですよ。

僕は裏庭で用心深く練習をはじめた。地面からあまり離れず、裏側に触れた自分の指が透けて見えるくらい薄い紙切れに印刷された青いぼやけた字の説明に従って練習した。要は、重心を細かくずらせばよいのだ。絨毯の中心から、ほんの少しうしろに下ったところにあぐらをかいて座り、体をわずかに乗り出せば前進するし、左に傾ければ左に曲がり、右に傾ければ右。指先を丸めて下から両横を持ち上げれば上昇し、軽く下に押せば下降する。そして裏側が何かの表面の圧力を感じると、絨毯はひとりでに止まる。

なるほど、そうやって動かすんだ。空飛ぶ絨毯の操縦方法がきちんと描かれた作品ってのを僕は知らないんだけど、この絨毯の操縦方法は腑に落ちますね。僕にも運転できそう。って、ついその気にさせられる。ありえないはずの絨毯が、グッとリアルに思えてきます。
主人公の少年は、最初は裏庭のごくごく低いところを飛ぶだけでしたが、当然、より高くもっと高くとなっていきます。「もっと強烈な遊びを追い求めた」ですね。

クラブアップルの枝の下をくぐり抜け、黄色いブランコのロープのあいだを通って、物干しロープに掛けたシーツの底辺めがけて飛び、花壇の隅に植えた百日草の上を漂って、人参、ラディッシュ、四列植わったトウモロコシの横をかすめ、古い鶏小屋――といってもガレージの裏に杭を何本か立てて屋根を付けただけだが――の板床(いたゆか)の上を何度も往復する(中略)。時おり、自分の絨毯の影が地面を動いているのを眺めるのは楽しかった。僕の少し下、いくぶん横にずれたあたりを影は動いていく。

下には巻いてフックに掛けた緑のホースや、金属のゴミバケツの把手とその影や、地下室の窓を押しているカルミアの茂みが見えた。そのうちに僕は、ブランコとクラブアップルの上に浮かんでいた。下を見ると、絨毯の影が芝生の上を波打っていた。僕は生垣のはるか上を漂い、空地の上空まで出ていって、陽の当たった背の高い草や、トウワタの莢(さや)や、桃色のアザミを見下ろした。コーラの壜が一本、陽を浴びて光っている。空地の向こう、丘の上の家々は遠くへ行くにしたがってだんだん高くなっていき、青空を背景に家々の赤い煙突がくっきり浮かび上がっていた。

最初の引用は、低い位置を飛んでいるところ。あとの引用は、上空を飛んでいるところ。列挙癖の魅力が存分に発揮されたシーンです。「シーツの底辺めがけて飛び」とか、「コーラの壜が一本、陽を浴びて光っている」っていう、鮮やかな描写がいいですね。こういう箇所は、ゆっくり読まなきゃなりません。カメラの目線になって、描かているものを一つひとつ思い浮かべていく。そうすると、この飛んでいる高さの差が味わえると思います。あと、「絨毯の影」もいいですね。どちらの引用にも出てきますが、これも高低差を感じさせる描写です。
そして、秋の訪れとともに、このひと夏の熱狂はふいに終わりを告げます。少年たちは、また次の遊びを見つけるんでしょう。そんな幕切れも鮮やか。この作品、かなり気に入りました。


「新自動人形劇場」
街のあちこちに「自動人形劇場」があり、そこで日々「自動人形劇」が繰り広げられているという市を描いた作品。となると当然、傑作「アウグスト・エッシェンブルグ」を思い出すわけですが、伝記形式だったあちらに比べ、こちらはもう少し観念的。ある種の芸術論のような様相を呈しています。
特に、精巧に造られた人形とは模倣の芸術だというあたりは、とても興味深いです。これは、ホンモノとニセモノ、現実と虚構、原典とパロディなどなど、ミルハウザー骨絡みのテーマでもあるわけで。

この快楽が、部分的には模写の快楽、類似の快楽であることを否定するのは愚かというものだろう。とにかくそれは、完璧に達成された見せかけが与えてくれる快楽なのだから。だがこの快楽はまさに、もうひとつ別の、第一の快楽とは対立する快楽に依存している。あるいは模倣の快楽自体が、実は二つの相対立する部分に分割しうると言ってもいい。この第二の楽しみ、もしくはこの模倣の快楽の第二の半分とは、似ていないことの快楽にほかならない。ひそかな悦びとともに、私たちは見せかけが物それ自体ではないこと、ただの見せかけでしかないことをさまざまな面から見てとる。見せかけ自体が真に迫れば迫るほど、この快楽も増してくる。

面白いですね。自動人形が人間に近づけば近づくほど、その似ていない部分、人形性の部分に快楽を感じるというわけです。って、これは自動人形の話に留まりませんね。ミルハウザー自身の作品論としても読める。
もう一つ、「快楽」という言葉を使っているところもポイントです。芸術性とか技術の高さとか、そういうものを計るものさしが「快楽」になっている。ミルハウザーの文章もまた、ストーリー性やメッセージ性よりも、文章を「読む快楽」を目指しているように思えるんですよ。
さて、この作品のタイトルは、「新自動人形劇場」でした。「新」がついている。作品の後半では、この自動人形劇を大きく変革してしまう名匠が登場します。ナイフ投げ師ヘンシュが、それまでのナイフ投げを変えてしまったように、この人物も驚異の技術を押し進めていくうちにそれまでの枠組みを大きく逸脱していく。

一個の芸術が、本当にその最も豊かな表現まで推し進められたなら、そうした方向へ芸術を駆り立てた衝動が、さらにその先、妥当な限界の彼方まで芸術を押しやってしまうのではないか、そう自問すべきだったのではないか。あるいは、こう問うてもよかったかもしれない――ひとつの芸術のもっとも高度な発現には、それ自体の内に、おのれを破壊する要素が含まれているのではないか。つまり頽廃(デカダンス)とは、芸術のもっとも健全な状態の病める対極などではなく、実は健康と病の両方に通じる衝動の結果にほかならないのではないか。

これもまた、ミルハウザーの多くの作品に見られるテーマ。「おのれを破壊する要素が含まれ」た芸術とはどんなものか、これまでミルハウザーを読んできた読者は、よく知っているはずです。それは、その芸術を見る側の見方をも変えてしまいます。そのジャンルの枠組みを越えてしまった芸術を前にして、見る側も枠組みを意識せざるを得なくなる。そしてもうかつてのように、古い芸術を無邪気に見ることはできなくなってしまう。芸術における「新」とは、進歩であり、頽廃でもあるのです。


ということで、今日はここ(P139)まで。「空飛ぶ絨毯」は、すごくいいですよ。この作品集がどんなもんか、立ち読みするなら、これをオススメします。