『ナイフ投げ師』スティーヴン・ミルハウザー【1】


ナイフ投げ師
ちょっと間が空いちゃいましたが、3月から続けてきたミルハウザーまつりも、ようやく第三弾。最後に読むのは、
『ナイフ投げ師』スティーヴン・ミルハウザー
です。
1998年の短編集で、収録作は12編。今のところ邦訳されたものでは最新作になります。訳者は、もちろん柴田元幸
これ、装丁もちょっといい感じですね。テクスチャー感のある紙質に、作品に対する愛情を感じます。カクカクした書体でタイトルが斜めに入っているのは、飛んでくるナイフをイメージしているのかな。
手技の天才を主人公にした作品を多く書いているミルハウザーなので、いつか装丁家の作品を書いたいりするんじゃないかな、なんてことをふと思ったりして。
ということで、本編にいきます。


「ナイフ投げ師」
早速、表題作から。タイトルからも想像つくように、ミルハウザーお得意の「天才もの」です。ヘンシュというナイフ投げの名手が、町にやってきて公演を行なうという話が広がるところから、物語は始まります。町の人々は、期待に胸を膨らませると同時に、どうにも落ちつかない気分になる。というのも、彼には不穏な噂があるんですよ。

私たちがおぼろげに記憶するところでは、そのすぐれた投げ技ゆえに彼は早くから世間の耳目を集めたが、真面目に扱われるようになったのは、ナイフ投げという芸を彼が根本から変革したあとのことであった。それまでいかなるナイフ投げ師も越えなかった一線を、彼は大胆にも――無謀にも、と言う者もいた――越えてみせたのであり、それによって、怪しげな芸を元にそれなりの名声を築き上げたのである。私たちのなかには、彼がまだ各地の祭を回っていたころアシスタントに重傷を負わせたという話をどこかで読んだ気がする者もいた。そして六か月舞台を離れていたのち、新たな芸を引っ下げて復帰したというのである。この時点において彼は、ナイフ投げという無害な芸に、技巧的な傷という概念を導入したのであった。

え、「技巧的な傷」? 俄然興味が湧きますね。傷をつけないギリギリを狙うのがナイフ投げの妙技のはずでしょ。これは、確かに芸の根本的な変革でしょうけど、それってヤバいんじゃないの? もちろん、町の人たちもそう思っています。だから、気になりつつ不安な気持ちになる。
「噂」っていうのがいいです。声をひそめて語り伝えられる、いかがわしくも刺激的なエピソード。それが本当かどうかわからないっていうところが、ミソです。見世物的なこの手の芸は、それにまつわる噂も魅力のひとつなんですよ。
そしていよいよ、舞台が始まります。

八時ぴったりに、ヘンシュが舞台に歩み出てきた。黒い燕尾服、きびきびした身のこなしで、にこりともしない。その登場の仕方に私たちは驚いてしまった。なぜなら、客の大半は七時半から席についていたものの、いまになって入ってくる連中もまだ相当いて、一人また一人と通路を下り、先客たちがなかば持ち上げた膝を押し分けるようにして、ぎしぎしときしむ座席に向かっていたからである。実際、遅れてくる客を見越して開演が延びることに私たちは慣れっこになっていて、八時開演というのは八時十分、時には八時十五分開演という意味だと誰もが思っていたのである。

わかるなあ。開演時間ぴったりになんか始まりっこないと、僕も思いますよ。でも、こうした怠惰な客なんか、ヘンシュの眼中にはないようです。そんなことよりも、自分の芸の方が大事だと言わんばかり。何だか、客を突き放したある種の冷ややかさを感じますね。
舞台上で次々と繰り出され、エスカレートしていくヘンシュの芸を、ミルハウザーはこと細かに描き出していきます。そして徐々に、その技は緊張感を増していく。

ヘンシュは箱からナイフを一本選びとり、しばしそれを握っていたが、やがて腕を持ち上げて投げた。ナイフが彼女の首の横に刺さった。外れた――外れたのか?――私たちは失望がぐっと鋭く心を引っぱるのを感じ、次の瞬間それは恥に、おのれを深く恥じる思いに変わっていた、なぜなら私たちは血を見たさにやって来たわけではないのだ、私たちはただ――ただ何か別のものを求めて来ただけなのだ。

「外れた」って、言っていいものかどうか。首の横にナイフが刺さるんだったら、普通のナイフ投げでしかありません。でも、それだと「外れ」なんですよね。じゃあ観客は何を期待していたんでしょう?
そもそもナイフ投げっていう芸は、常にスリルとともにあるものです。絶対安全なナイフ投げなんて面白くも何ともない。失敗する可能性を秘めているからこそ、ドキドキするんですよ。何かのはずみで、例えば急にくしゃみが出たとか、そういう予測不能な原因によって、ナイフがそれるかもしれない。うっかり相手を傷つけることだってありえる。
そう考えると、僕らはナイフ投げの見事な技を見たいのか、失敗して血が流れるのをみたいのか、よくわからなくなってくる。観客は、安全圏にいてできるだけ刺激の大きいスリルを楽しむことを欲しています。もちろん、その欲望には気づかない振りをしながら…。ヘンシュは、そうした「怠惰な観客」を安全圏から引きずり出そうとしているようにも思えてきますね。そして観客は、自らの欲望から目をそらせなくなる。
この公演の最後の技がどんなものかは、読者にはある程度予測ができるはずです。もちろん、観客たちにだってわかっていたはず。なぜなら、それこそが彼らが見たがっていたものだからです。あとから、「何か別のものを求めて来ただけなのだ」なんて言い訳してもムダです。一度舞台が始まってしまえば、いくとこまでいかなきゃ終わらないんですよ。


「ある訪問」
9年間音信不通だった友人・アルバートから「妻をもらった」という手紙が届き、語り手である主人公は田舎村に暮らす彼の家を訪ねることにする、というお話。若い頃のアルバートは、およそ結婚なんてしなさそうなタイプだったとか。以下は、その若かりしアルバートについて書かれた部分です。

目鼻の尖った、ニューイングランド風の美男子だったが――うちの家族はローマ帝国滅亡以来コネチカットに住んでいるのさ、とは本人の弁だった――クラスの女の子たちが誘うように笑顔を送っても、もっぱら自分とは何の共通点もない、革ジャンを着た町の女の子たちとつかの間の関係しか持たなかった。卒業後の一年間我々は、カフェや本屋のたくさんある小さな大学町で一緒に暮らし、部屋代を折半(せっぱん)してアルバイトを転々としつつ、私は自分を待ち受けている、いずれは逃れようのないスーツとネクタイの生活を先延ばしし、一方彼は型どおりになりたくないという私の型どおりの心配をからかい、ビジネスこそアメリカの唯一のオリジナリティの源だぜとうそぶいて、プラトンと『現代チェスの序盤』を愛読してフルートを奏でた。

うわー、イヤミなヤツですね。美形で、知的で、スマートで、自分以外の他人をバッサリ斬るタイプ。凡庸さを軽蔑し、欺瞞を許さないという、若者特有の高慢さが鼻につきます。でも、主人公にとっては、ある種一歩先をゆく憧れの人物として映っていたようです。ちょっと彼にコンプレックスを抱いているフシもある。若い頃は特に、こういうの、「カッコイイ」って思いがちなんですよね。「型どおりになりたくないという私の型どおりの心配をからか」う、なんて憎たらしいけど、マネしてみたくなるし。
そんなアルバートが結婚したっていうんだから、興味津々です。主人公は仕事に疲れた中年で、未だ独身。なので、彼の現在が、余計に気になる。どんな相手と結婚し、どんな暮らしを送っているんだろう?
アルバートが暮らしていたのは、さびれた田舎にある古ぼけた一軒家でした。そこでかなり特殊な相手と結婚生活を送っているんですが、その結婚相手が何者なのかは、読んでのお楽しみ。まあ、かなり困惑させられるような相手なんですよ。
この小説は、基本的にリアリズムのタッチで書かれています。あと、繊細な心理描写。その意味では、『イン・ザ・ペニー・アーケード』の第二部に近い。そしてそんな中、「奇妙な妻」の異物感だけが際立っています。
結局、「旧交をあたためる」つもりだった主人公の思うようには、話は進みません。かつてのようにアルバートと語り合ったりもしたいんですが、彼の妻の異物感がそれをジャマするんですよ。そして、何とも言えない気まずい時間ばかりが流れていく。
しばらくぶりの友人に会ったときの、とらえどころのない違和感、何を話せばいいのやらって途方に暮れる感じ。イメージしていた友人像と本人の暮らしぶりのちょっとした齟齬。こうした微妙な感覚が形になったのが、この「奇妙な妻」じゃないかなという気がします。

二つのジュース用のグラスに彼はワインを注いだ。グラスにはプーさんとイーヨーの絵が入っていた。「ガソリンスタンドでもらったんだ」とアルバートは言った。

くまのプーさん! かつてあれほど凡庸さを嫌っていたアルバートが、くまのプーさん! しかもガソリンスタンドの景品…。「しょっぱい感じ」と言うか、微妙な心持ちにさせられますね。俺はここへ何しに来たんだ…? そんな気まずさが、じわじわきます。


「夜の姉妹団」
彼女たちは、12〜15歳くらい。夜になると、数名で隊を組んで、人目のつかないところへ出掛ける。メンバーは一定していず、自分たちのことは口外しないという沈黙の誓いを立てている。
これが、夜の姉妹団です。彼女たちの存在を知った町の大人たちは、不安な気持ちになります。いったい何をしてるんだ? よからぬこと、いかがわしいことをしているんじゃないか? 自分の娘は、大丈夫か?
この作品は、そんな「夜の姉妹団」についての実態レポートのようなスタイルで描かれています。様々な証言、噂、目撃談、論評などを検証してくんですが、一向にその実態ははっきりしません。むしろ芥川龍之介の「薮の中」のように、その正体はぼやけていくばかり。
これが、「夜の兄弟団」だったらどうでしょう? たぶん、厳しい掟の下に構成された秘密結社っていうイメージじゃないかな。でも、姉妹団は違います。もっと曖昧に拡散していく、中心を欠いた集団という印象。大人たちが求めるはっきりとした答えを、するすると逃れていく。

夜ごと少女たちの集団が、街灯の届かぬ場所へ消えていくのが目撃される。姉妹団は次第に大きくなっていく。材木置場の裏の駐車場を越えていく少女たち、高校のテニスコート裏の小さな森に集う少女たち、建築中の家の地下室から這い上がってくる少女たち、サウス・ポンドのボート小屋から出てくる少女たち。彼女たちをめぐる報告は跡を絶たない。あたかも何かを、昼の光の下では見つからない何かを探しているかのように、彼女たちはつねに夜動く。そして、家にとどまり闇のなかで目覚めている私たちの耳に、遠くの高速道路を走るトラックのかすかなうなりのように、闇に包まれた芝生や薄暗い道路をひたひたと渡っていく小さな足音が、ひっきりなしに届いてくる気がする。小石を敷いた玄関前の私道を越え、砂をまいた歩道を越え、黒い落葉に覆われた森の小道を抜けて、休むことのないサラサラという足音が、たがいに織りあうように、そしてまたほどけるように夜のなかを進んでいく。

いいなあ。このあたりの文章は、いかにもミルハウザーですね。夜のあちこちに現われる少女たち。少女たち、少女たち、少女たち。「姉妹団は次第に大きくなっていく」とありますが、これ、メンバーが増えていくっていうよりも、町の人々の脳内でその存在が膨れ上がっていくっていう風に考えたほうがいいでしょう。
実際に彼女たちの足音がするかどうかは、もはや問題じゃありません。足音が聞こえようが聞こえまいが、人々の耳に「ひっきりなしに届いてくる気がする」んですよ。正体がわからないからこそ、彼女たちについて思いをめぐらせることを止められない。憑かれてるって言ってもいい。

話しておくれ! と私たちは愛ゆえに声を張り上げる。何もかも話しておくれ! そうすれば私たちはお前を許そう、と。だが少女たちは私たちに何もかも話すことなど望んでいない、一言だって聞いてもらうことを望んでいない。

理解をはねつけ、許しを拒み、叱責を無視する少女たち。大人たちの目から逃れ秘密を持つことの快楽を、彼女たちは決して手放そうとしません。これは、「秘密であることが目的の秘密」といった類のものでしょう。そして謎は宙吊りのまんま、町の人々の頭の中でサラサラという足音は響き続けます。


ということで、今日はここ(P70)まで。それにしても、この短編集のミルハウザーは、何だかちょっとダークです。