『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー【5】


『バーナム博物館』、最後の3編、ちゃっちゃかいきます。


「クラシック・コミックス #1」
T・S・エリオットの詩をマンガ化し、それをひとコマひとコマ文章で表現するっていう、何というか「絵に描いたような」実験小説。以前、読んだときはさっぱりわかりませんでした。エリオットの詩を知らないうえに、文章で読むマンガっていうスタイル。これは、ハードル高いですよ。例えば、こんな感じ。

コマ2 年齢のはっきりしない、どちらかといえば若めの男が、青いモーニング、レモン色の手袋、幅広のウィングカラーという格好で、カンテラ形の街灯の下に立っている。カンテラから黄色い光が流れ出て、紫がかった闇に注ぎ込む。男の黒い瞳は憂いを帯び、頬はわずかにくぼんでいる。薄茶色の髮は、きれいに真ん中で分けられている。男は手袋をした両手を、磨き込んだステッキの柄(え)に載せている。爪先から長い影が伸び、影もまたその両手をステッキの影に載せている。男のうしろ、闇のなかに、通りがかりの馬車の車輪がかすかに見てとれる。男の頭の横に浮かんだ吹き出しには、心のなかの思いを表わす、小さな白い輪がいくつかついている。吹き出しにはこう書かれている――では行こう、君と僕とで……

青・レモン色・黄色・紫・薄茶色…。アメリカのコミックは、カラーなんですね。影や吹き出しの形にまで言及し、背景にチラっと描かれた馬車の車輪まで見逃さない、このこってりとした描写! コマの中の絵を逐一言葉に置き換えていったような文章。
ミルハウザーはたまにこういうことやりますが、執拗な描写にもかかわらずこれを脳内で再度絵に変換しようとすると、ちょっと妙な具合になる。細部はくっきりしてるのに、全体像を掴もうとすると、どこかズレていたり、模糊としていたり。掴めそうで掴めないこの感覚が、いいんですよ。
詩を下敷きにしているので、比喩がそのまんま絵になってるっぽい箇所もあり、ここからストーリーを読み取るのは、なかなかやっかいです。この青いモーニングの男がアルフレッドという名で、烏羽色の髮の女に魅かれているということがわかれば、このコミックスの筋はおぼろげに見えてきます。でも、あくまで「おぼろげに」。まあ、詩はストーリーじゃないですからね。その意味では、エリオットの詩を知っていても、このとらえどころのない印象はあまり変わらないかもしれません。
ラストは、ちょっとしたヒネリがあります。コマに閉じ込められた世界は、ミルハウザー好みの入れ子構造につながります。


「雨」
土砂降りの街をゆく男の目に映ったものをひたすら描いていく小品です。ストーリーらしきものはほとんどなく、ただただ雨の描写が続きます。
僕にはこれ、雨の中で世界はどう見えるか、っていう話に思えました。ときおりフラッシュバックのように鮮やかな光がよぎるものの、また雨の中にかすみ、にじみ、反射し、溶けていく世界。
要するに、輪郭が、境界が曖昧になっていくわけです。ぼやーっとしてくる。凄まじい雨の中を歩いていると、何だか宙に浮いているような気がすることってありませんか? そんな感覚を描いているんだと思います。すべてが雨に覆われて、私と世界を区切るものがなくなっていく。現実と非現実の境目もなくなっていく。
短いけれども鮮やかな作品です。


「幻影師、アイゼンハイム」
これは、この短編集の中で一番読みやすいんじゃないかな。語り口もオーソドックスだし、ストーリーもスリリングだし、幻想味もたっぷり。万人に勧められるミルハウザーといった感じです。
舞台は、19世紀末のウィーン。頽廃的な文化が乱れ咲く世紀末ですね。ステージに上がるのは、アイゼンハイムという天才奇術師。彼の生涯が、順を追って描かれていきます。とくれば、ミルハウザーお得意の天才芸術家もの。「アウグスト・エッシェンブルク」のパターンですね。もちろん、読みどころはその天才っぷりを示す奇術の数々。

彫刻を施した額縁に収まった大きな鏡が、客席と向かいあわせに舞台上に置かれる。観客を一人舞台に招き、鏡の周りを歩きまわらせて、仕掛けがないかどうかじっくり調べてもらう。次にフードのついた赤いマントをその観客の頭にかぶせ、鏡からおよそ三メートルの地点に立たせる。鏡に映ったあざやかな赤色が、観客席からもはっきりと見える。やがて劇場全体が暗くなり、残る明かりは、鏡自体から発している光だけになる。光はだんだんとその輝きを増していく。マントをかぶった観客は両腕をふり回したり、自分の鏡像に向かってお辞儀をしたり、体を左右に曲げてみたりする。ところが彼の鏡像が、次第に反抗を示すようになる。本人は両腕をふり回しているのに、それを胸の前で交叉させてみたり、こちらがお辞儀をしてもいっこうに従わなかったりするのである。突然、鏡像は顔を引きつらせ、ナイフを取り出して、おのれの胸をひと思いにつき刺す。鏡像は鏡の中の床に倒れ込む。と、死んだ鏡像から、幽霊のような白い影が立ちのぼり、しばし鏡の中を漂う。やがて幽霊はさっと鏡から飛び出し、茫然とした、時には怯えきった件(くだん)の観客めがけてふわふわと宙を飛んでいく。そしてアイゼンハイムが一言命じると、暗闇の中に上っていって、そのまま姿を消すのである。

文章で読むイリュージョン。この作品、アイゼンハイムに関する歴史をひも解くといったスタイルで書かれているので、ひたすら客観描写に徹しているんですが、それがミソです。まるで据えっぱなしのカメラで見ているような、不思議なリアリティがある。イリュージョンが、実際にあった出来事として迫ってくる。
ついでに、鏡ってのも気になりますね。いかにも、幻影にふさわしい小道具じゃないですか。反抗する鏡像ってのは、幻想小説にもよく出てくるパターンだし、奇術のネタとしてもありそうです。ただし、それが自殺するとなると、ちょっとやりすぎじゃないでしょうか。しかも、霊魂となって鏡を飛び出してくるときたら、もはや悪趣味の領域です。だけど、こんな手品があったらぜひぜひ見てみたい。
アイゼンハイムの奇術は、この鏡の奇術からもわかるように、どこか不吉で邪悪なものを感じさせます。このあとも、「バベルの塔」「サタンの水晶玉」「悪魔の書」「ハーメルンの笛吹き男」などなど、奇っ怪で不気味な手品が次々と紹介されていきます。不健全な想像力に支えられた、イリュージョンの数々。でも、不健全なものってのは、魅力的なんですよ。心の影の部分を刺激する。
ウィーンで一躍人気者になったアイゼンハイムに、パッサウアーというライバルが現われるところも面白いです。

しかし、その秋の彼らの公演は、まごうかたなき競争のリズムにのっとって行われることになった。すなわちアイゼンハイムは日曜、水曜、金曜に、パッサウアーは火曜、木曜、土曜に舞台に立ったのである。ライバルが斬新なことこの上ない幻影を出現させるにつれ、アイゼンハイムの方もより大胆、より禍々(まがまが)しい幻影を生み出すようになっていった。それはあたかも、二人が奇術の領分をとっくに越えてしまい、いまやまったく新しい領域、精妙な驚異と不吉な美から成る領域に生きているかのようであった。(中略)そして、重々しい世紀が緩慢に終末へと近づいていくなか、誰もがみな、この勝敗の定まらぬ戦いの緊張から彼らを解放してくれるべき、決定的な事態が訪れるのを待った。

ワクワクしますね。世紀末魔術合戦。交互に舞台に立つライバル同士は、「反抗する鏡像」を思い出させます。このあたりの展開は、とってもスリリングです。
と、これ以上のストーリーはもう触れないでおきましょう。アイゼンハイムはどのように20世紀を迎え、どのような最期を遂げたのか。それは読んでのお楽しみ。
この作品の最後に、アイゼンハイムを失った人々による様々な憶測が並べられます。

議論はとどまるところを知らなかった。曰(いわ)く、すべてはレンズと鏡の効果だったのだ。曰く、プラティスラヴァからやって来たユダヤ人は、暗い魔術の能力と引換えに悪魔に魂を売ったのだ。だがいずれにせよ、それが時代の徴候であるという点で、万人の意見は一致した。正確な記憶が色あせてゆき、コーヒーカップや医者の往診や戦争の噂から成る日常世界が戻ってくるとともに、忠実な信奉者たちの胸にひそやかな安堵の念が宿った。なぜなら彼らは、もはや秩序も崩壊しかけた歴史から無事抜け出した我らが師が、神秘と夢から成る不滅の領域に入っていったことを知っていたからである。

「神秘と夢から成る不滅の領域」…。あの世のことでしょうか? 僕は違うと思うな。それは、人々に語り継がれる伝説の領域。薄暗い妄想のなかで生き続ける奇術師。これこそ、実体を持たないイリュージョンにふさわしい。そんな気がします。


ということで、『バーナム博物館』読了です。
トリッキーな仕掛けが凝らされた作品が多いなか、奇術師を主人公にした作品が最もオーソドックスっていうのは、ちょっと面白いですね。