『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー【4】


「セピア色の絵葉書」
主人公は一人旅をしている男。彼は、訪れた村で「プラムショー稀書店」という店にふらりと立ち寄ります。

ウィンドウには雑然と、いろんな品が一緒くたに並んでいた。フープを転がす少年の絵が載った児童書がこちらにあるかと思えば、あちらには『バーンズワース地理百科事典』なる、ひび割れた革表紙の十二巻セットがあるという具合。一方の隅ではリトルボーイ・ブルーの格好をした人形が、埃をかぶった台に載った地球儀に目を閉じて寄りかかり、そのかたわらに大きな地図帳があって、紀元二〇〇年のローマ帝国の色あせた地図のページに開かれている。どういう店なのか見当がつきかねる。赤い紙のカーテンがついたビクトリア朝期のおもちゃの劇場があり、すぐ隣には、お姫さまが井戸からバケツを引っぱり上げている色刷りのおとぎ話の本がある。木のアームに取り付けた立体鏡が木の把手を下にして斜めに置かれ、その向こうにはコンコルド広場の版画がガラスの額縁に収まっている。ホーソーン全集十六巻中の十三冊が、古びたシルクハットとオペラグラスの背後で、ねじけた赤い煙突みたいな具合にそびえている。プラムショーの趣味は奇妙で風変わりだった。でも私には、こうした展示のなかに、ある秘密の調和が感じとれるように思えた。

またしても、ショーウィンドウ! 陳列されたモノたちをしつこく挙げていくあたりは、ミルハウザーの独壇場です。この作品の前半部分は、こうした村の街並みやウィンドウや陳列棚の描写に費やされます。ちょっとどうかと思うくらい、ひたすらモノが羅列される。
モノたちを舐めるように見つめていく描写は、主人公が旅行者だからかもしれません。旅先でぶらぶらと歩いていると、普段なら見過ごしそうなものについ目が止まったりしませんか? ちょっとしたモノにも視線が敏感に反応してしまう、あの感覚です。
で、このウィンドウです。「ある秘密の調和が感じとれるように思えた」って主人公が言ってるわけですが、何をもってそう言ってるんでしょう? 僕には、ここに並べられたものは、どれも「今・ここ」から遠く離れるためのモノのように思えます。今じゃないいつか、ここじゃないどこか、日常じゃない何か…。日常を離れるために旅をしている主人公は、自然にそうしたものに吸い寄せられていく。
この店で扱われているのは、本に留まりません。「稀書店」と言いながら骨董品など雑多なものが売られてるんですよ。そこで、主人公は一枚の絵葉書を手にする。この絵葉書の描写も、虫メガネで覗くような緻密さです。

しばらくすると、私はわれ知らず、一枚のセピア色の絵葉書に見とれていた。裏は空白、未使用である。憂鬱な趣の茶色い写真には、湖だか川だかに面した、岩の多い岬が写っている。向こう岸に茶色い松林が広がり、その上空には薄くたなびく茶色い雲と、沈みゆく茶色い太陽がある。空の上部左隅に、茶色い大文字で小さく、イニスカラ、と書いてある。一番先まで突き出た岩の上に、二つの小さな人影が座っていて、一人は男、一人は女、どちらも水の方を向いている。男のかたわらには麦わら帽子とステッキが見える。女は頭に何もかぶっておらず、たっぷりとした髮が風に乱れている。暗いので細部は見きわめがたいが、ぼんやりと曖昧に見えるせいで、かえって茶色い情景のロマンチックな憂いが高められているようにも思える。私はそれを買うことにした。

「茶色」のくり返しのせいで、まるで別世界の風景のように感じられます。どこだかわからない絵葉書の風景の中へ入り込んでいくような気分。旅先でさらに、別の場所へと旅をする。ここじゃないどこかから、さらにべつのどこかへ。この二重構造が面白いです。宿の外でひたすら降りしきる雨も、主人公をもう一つの旅へ誘う舞台装置のように思えてきます。
この作品は、「奇妙なお店」ものと言っていいでしょう。ストーリーだけ取れば、この半分の分量で書けそうな話ですし、どっかで誰かが書いていそうな話です。でも、ミルハウザーのディテールを執拗に追いかける描写は、ちょっとしたトリップ感があります。「トリップ感」…、読書もまた旅のようなものなわけで。


「バーナム博物館」

バーナム博物館は私たちの町の中心に位置し、金融街から北へ二ブロック行ったところにある。ロマネスク様式とゴシック様式の玄関、二体一組のスフィンクスや半鷲半獅(グリフィン)、玉ねぎ型の金箔屋根、持送り積みの小塔、マンサード屋根のやぐら、八角形のキューポラ、棟飾り、刳(く)り型――これらすべてが一体となって、ひとつの捉えがたいデザインを形成している。その目論見はどうやら、見る者の視線を一点から別の一点へとたえず引きまわし、全体のかたちを視野に収めさせないことにあるらしい。実際、これほど構造を把握しがたい博物館もまたとあるまい。見ようによってはひとつの建物に無数の張出しや離れや建増しや付足しが加わっているようにも見えるし、あるいはまた、建物はひとつではなく沢山あって、それらが屋根つきの通路や、石橋や、花咲き乱れる四阿(あずまや)や、売店の並ぶアーケードや、列柱のつづく廊下などによって巧みに結びつけられているようにも思える。真相はどちらなのか、私たちにはどうにも判断がつきかねるのである。

これは怪建築ですね。様々な細部がひしめき、あれもこれもを呑み込むごった煮様式。「全体のかたちを視野に収めさせない」ってのは、ディズニーランドを思い出させます。作りものの世界をそれらしく見せる手法のひとつなんでしょうね。
ちなみに、引用したのは冒頭の章の全文。この作品もまた、「探偵ゲーム」他と同様、短い断章スタイルで語られているんですよ。これが、部分が集まって全体を形作る博物館の様式にぴったり合っています。ごちゃごちゃした迷路のような博物館を案内する、一風変わった博物館ガイド。
ところで、バーナムとは実在の人物で、人魚や小人などのうさん臭い見世物で人気を博した、19世紀のインチキ興行師です。僕が最初にバーナムの名前を知ったのは、寺山修司のエッセイじゃなかったかな? そのバーナムの名前を冠した博物館ですから、どこかいかがわしい。とまあ、このあたりの情報は、例によって訳者ノートでちゃんとフォローされています。
人魚や空飛ぶ絨毯、透明人間など、ユニークな展示物もいいんですが、そうしたいかにもファンタジックなパートよりも、警備員や屋外橋や廃棄物だらけの部屋について書かれたパートのほうが面白いです。僕が気に入ったのは、ダクトの話。

バーナム博物館のさまざまな特質のひとつとして、ある種の卑俗性がそこここに存在することは認めねばなるまい。(中略)あちこちの部屋や廊下の床に隠されている数々のエアダクトもそのひとつだろう。毎日、不特定の時間に、そこから上向きに空気が噴射され、スカートやドレスをめくり上げるのである。遊園地のビックリハウスの粗野な物真似ともいうべきこの仕掛けは、博物館の敵たちの激しい非難の的となっている。

ははは、マリリン・モンローのアレですね、パンチラ。確かに良識ある人なら眉をひそめかねない。ところが、ここを訪れる女性たちの中には、わざとスカートを穿いてゆき、思い思いの下着を偶然披露する者もいるとか。これは、「見せ下着」じゃないですか。ファッションとしての、見られてもいい下着。彼女たちのこの下着もまた、博物館の名物であり、展示物と言ってもいいでしょう。博物館なんて所詮は見世物、普段見られないものが見られるからこそ、面白いんですよ。これぞ、バーナムイズムです。
また、この博物館への様々な意見が紹介され、それに対する反論や解説が繰り広げられるあたりも興味深い。

バーナム博物館の敵たちは言う。あそこの展示物はみないんちきだ、と。

バーナム博物館のことを、しょせん子供向けの博物館だと考える人もいるかもしれない。

私たちのことを十分に理解していない人々は、バーナム博物館とは一種の逃避手段ではないか、と非難したりする。

これらの批判は、そのままバーナム博物館の魅力となってしまうという逆説。ミルハウザーは、そうした魅力を解きほぐしていきます。いかがわしくうさん臭い作りものの世界だからこそ、私たちを惹きつけてやまないのだと。
もちろんこれは、バーナム博物館について語っていると同時に、ミルハウザーの作品について語っているようにも読めるわけです。「フィクションとは?」っていう問いを含んだフィクション。批判者の意見をも予め内包した博物館は、自分自身にツッコミを入れつつ展開する物語のようです。


ということで、今日はここ(P265)まで。それにしても、ミルハウザーの断章スタイルはクセになりますね。章と章の間に見えないつながりがあるような気がして、それを辿っていくのが楽しいんですよ。まるで、バーナム博物館の展示室と展示室を結ぶ秘密の廊下を歩いているような気分。
さあ、残すところ、あと3編です。