『イン・ザ・ペニー・アーケード』スティーヴン・ミルハウザー【3】


『イン・ザ・ペニー・アーケード』第三部。ここには、ミルハウザーの真骨頂ともいうべき幻想味あふれる作品が収録されています。では、順番にいきましょう。


「雪人間」
これは、前に読んだときもとても印象深かった作品。雪の持つマジックを、存分に味わわせてくれます。
主人公の少年が、ある朝目を覚ますと、外は一面の雪景色。一夜にして世界が変わってしまったことに興奮を隠せず、彼は外へ出かけます。まずもって、この雪の街の描写が素晴らしい。

パグリアーロの空地は僕たちを戸惑わせた。夏のあいだ、僕らはそこで、ゴミ入れの葢や棒切れや錆びた缶カラを武器に戦争ごっこをしたものだ。あちこちの凹みや出っぱりも、さざ波のようにうねるその輪郭も、わが家の地下室の床のように僕らは慣れ親しんでいた。なのに今日は、その何もかもが不思議なかたちに変貌していた。なだらかなこぶや窪みが織りなす見たこともない空間。それは未知の領域だった。

慣れ親しんだ街が、雪ひとつで「未知の領域」になってしまう驚き。キラキラ輝くワンダーランドに変わる日常。少年の目線でそれを見ているっていうのがいいですね。空地の地形が変わってしまうっていうのも、面白いです。目だけじゃなくて、足の裏でもその変化を味わっているってことでしょ。足が雪にずぼっと埋もれる感覚を思い出します。こーゆーところに、僕はリアリティを感じるんですよ。そしてその雪の下には、夏の日々が埋まっている。ミルハウザーは幻想的なシーンも素晴らしいんですが、第二部で見たように日常的な場面も巧い。結局、幻想を鮮やかに描き出せるってことは、日常の確かな描写力があるからだと思います。
そして、さらにワンダーな展開が待っています。街に「雪人間」が現われ始める。雪人間、つまりスノーマンってことですが、雪だるまよりももっとリアルな雪の像のようです。

彼らはそんじょそこらにあるような、三段重ねの大きな雪玉、鼻は人参、目は大きな黒いボタンか滑らかな丸石といったたぐいの雪だるまとはわけが違っていた。そう、彼らは、細部に至るまで情熱を込めて作られた雪の男、雪の女、雪の子供だった。鼻も口も顎も、みんな雪だった。彼らは雪の帽子をかぶり、雪のコートを着ていた。雪の靴は雪の靴紐でしばってあった。雪のサマードレスを着て、雪の麦わら帽子をかぶった一人の雪の女の子が、華奢なつくりの雪のパラソルを肩に載せて立っていた。

雪づくし! 「雪の靴紐でしばってあった」のところで、え、と思います。雪の紐ってどんなんだ? 「雪のサマードレスを着て」のところで、ん、と思います。雪なのに「サマー」ドレスなの? 「華奢なつくりの雪のパラソル」のところで、うそぉ、と思います。雪でそんなのできっこない。いや、できちゃうんですよ、この小説では。
でも、これはほんの序の口。この雪の彫像たちは、どんどん増えてゆき、どんどん精巧になってゆきます。「神業」と言ってもいいほどの彫像技術。まるで第一部のアウグストの人形のように、その技は磨かれ進化していく。でも一方で、行きすぎた技は、どこか危ういものを感じさせます。「このままいったらどうなっちゃうんだろ?」って、不安になる。あれよあれよという間にエスカレートしてゆく様々な雪人間に、目が離せなくなります。
あと、僕が面白いと思ったのは、誰がこの雪人間たちを作ったのかは、わからないというところ。どこかの子供が作ったようですが、主人公の少年は、その作者にはあまり興味がないみたいです。それよりも、その像の見事さにただただ圧倒され、興奮している。謎解きよりも、目の前のワンダーに夢中になっている。でも、男の子ってそういうものかもしれませんね。ラストの鮮やかな幕切れも、いかにも男の子って感じで、思わず笑みがこぼれます。


「イン・ザ・ペニー・アーケード」
これまた12歳の男の子が主人公。もう子供じゃないって思いたがるお年ごろ。かつて大好きだった遊園地のペニー・アーケードにやって来た少年の話です。ペニー・アーケードってのは、硬貨を入れて遊ぶゲームセンターみたいなものかな。ピンボールマーシーン、占い師の人形、射撃ゲームのガンマン、覗きからくりなどなど、魅惑に満ちたオブジェの数々。少年にとってそこは、日常から離れた、妖しい夢の世界でした。ところが、久しぶりに訪れてみたら、すっかり廃れてしまったらしく、かつての神秘の輝きはどこにも見当たらない…。
外の音が、アーケードの中までちょくちょく聞こえてくるというのが、巧いですね。非日常の冒険を楽しもうとしているのに、いちいち日常に引き戻される。興ざめですよ、これは。しかも、そこで遊んでいるのは、退屈しきった不良少年ばかり。間延びした日常の延長です。ここは、ホントに少年が夢中になったあのペニー・アーケードなんでしょうか? かつての神秘はどこへ行っちゃったんでしょうか?
って、これはほとんど、レイ・ブラッドベリの世界ですね。ワンダーがすぐそばにあった少年の日と、それが失われていくことへのノスタルジー。ただし、ミルハウザーのほうが、タッチは硬質です。それはたぶん、ミルハウザーが心情よりもモノへと寄っていくからでしょう。ペニー・アーケードのようなモノであふれた世界を描くとき、ミルハウザーは実に楽しげです。例のごとく、オブジェを並べることに夢中になっている。
「突然僕はペニー・アーケードの秘密を理解した」。少年は、ふいに気づきます。何故、あの神秘が色あせてしまったのか。その答えは、ここには書きませんが、さほど意外性のあるものではありません。とは言うものの、まるでミルハウザー作品の秘密をも明かしているようで、興味深いものがあります。表題作たる由縁でしょう。


「東方の国」
これは好きだなあ。とある「東方の国」を断章スタイルで描いた作品。言わば、ガイドブックや辞書みたいな構成です。どの章も幻想的で、ミルハウザーの想像力がいかんなく発揮されています。
最初の章「歌う鳥」にはこんなことが書かれています。

宮殿の玉座の間(ま)に棲む十二羽の歌う鳥たちは、その全身が金箔でできている。ただし喉に限っては銀、目は透明な鮮緑色の翡翠(ひすい)である。鳥たちがとまっている大きな木はといえば、葉は銅、幹と枝は半透明の翡翠、本物の葉や茎や樹皮を模した色が木全体にしかるべく塗られている。

はい、また出てきました、からくり人形。歌い飛ぶ十二羽の豪奢な鳥の人形。ここでは、この人形がいかに緻密に計算され、精巧に作られているかが語られます。それだけでもため息が出るような美しさですが、この章の締めくくりがさらに面白い。

鳥たちは形も動きも本物そっくりで、体が金色をしていなければ容易に本物と間違えられてしまうことだろう。この点に限りわざわざ人工物としての様相を残してあるのも、かような間違いを避け、かつわれわれに驚異の念を高めるのが狙いなのではないかと考える者の少なくない。

これだけの技術をもってすれば、まるっきり本物に見える人形を作ることも可能でしょうが、わざと色だけは金色にしてるんだと。ニセモノ性の強調。第一部にならって言えば、アウグストの技術とハウゼンシュタインの知性が合わさったようなものですね。確かに、本物そっくりだったら、わざわざ人形である意味はありません。この手の逆説、ねじれたロジックは非常に僕好みです。
続いての章題は、「雲」「不眠症の廊下」と続きます。それぞれから引用します。

わが国の空のいかなる雲も、いまだ命名されていない形を帯びることは決してないと断言してよい。それらの名はどれも、自然物であれ人工物であれわが国に存在する物体の名である。そしてわが広大な帝国はありとあらゆる物体を包含するといわれるのである。

眠れぬ夜が訪れると、帝は寝室を出て、帝専用の二つの廊下のいずれかを散歩する。これらの廊下はその目的のために特に設計されたもので、不眠症の廊下、の名で知られる。どちらも大変に長く、速馬を終夜走らせてもなおその果てにたどり着けぬほどである。

細かなからくりの話の次は、スケールのでかい話です。どんな雲の形にも名前がついているという、気の遠くなるようなホラ話。白髪三千丈の世界ですね。さらにこの万物を包含する国を治める帝が、眠れぬ夜、一人長い長い廊下を散歩するというのも、強烈なものがあります。散歩は景色が変わるから楽しいんであって、廊下じゃあまり意味がないじゃないですか。でもそのことから、帝のその計り知れない権力と孤独がじわーっと浮かび上がってくる。それにしても、「不眠症の廊下」っていう発想はすごいですね。おかしなことを考えるもんです。
以下、「砂時計」「側室」「退屈」「小人」「瞼絵」「龍」…と断章が続き、この「東方の国」の文化や歴史、風土などが語られます。「瞼絵」って何? それは読んでのお楽しみ。
このように、短いエピソードをずらずら並べていくというスタイルは、ミルハウザーがよく使う手ですね。これもひとつの列挙癖、カタログ趣味でしょう。読んでいくうちに、徐々に帝や宮殿の様子など、何となくわかってきますが、でもどこかとらえどころがない。ピースを集めていくうちに全体像がおぼろげに見えてくるんですが、それでもなお、余白やズレや歪みが残るところが、ミルハウザーの巧みなところだと思います。種明かしなんかしないんですよ。「雪人間」の少年が謎解きに興味を示さなかったように、この「東方の国」がいったいどんな国なのかは、結局のところよくわからない。
いや、わからなくていいんです。ただただ次々出てくる「不思議」を舌なめずりして味わえばいいんです。珍味ではありますが、僕にとってはかなりの美味! 堪能しました。


ということで、『イン・ザ・ペニー・アーケード』読了です。