『イン・ザ・ペニー・アーケード』スティーヴン・ミルハウザー【1】


イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
ではでは、ミルハウザーまつり第一弾、
『イン・ザ・ペニー・アーケード』スティーヴン・ミルハウザー
です。
80年代に出版された、ミルハウザーの第一短編集。全体は三部立てになっていて、第一部は三章から成る中編一編、第二・三部はそれぞれ三編の短編から構成されています。このあたりにもミルハウザーのこだわりが見られます。
ちなみに、10年以上前に一度読んでるんですが、いくつかの作品を除いてはほとんど忘れちゃってます。なので、そのあたりはまああまり気にせずに。


では第一部。「アウグスト・エッシェンブルク」という中編。この短編集の中では一番長い作品ですが、一気読みしたくなる名品。いきなり濃いミルハウザー・ワールドが味わえます。
舞台は19世紀後半のドイツ、からくり自動人形職人アウグスト・エッシェンブルクの生涯が描かれます。時計職人の父親を持ちからくり人形に魅せられた少年時代、百貨店のショーウィンドウのために人形製作をする青年時代を経て、アウグストは、ハウゼンシュタインという人物と共に自動人形の舞台を興業として行うに至るというお話。以前このサイトで読んだ『三つの小さな王国』収録の「J・フランクリン・ペインの小さな王国」とよく似た雰囲気で、時代遅れの手技にこだわる天才芸術家の物語。
昔読んだときはぐいぐい展開するストーリーに夢中になったもんですが、今回再読して改めてミルハウザーの描写力に驚きました。特に、列挙癖。父親の仕事場に置かれた様々な時計、市場に響く様々な呼び込みの声、人形製作に使用する様々な素材、百貨店建築に取り入れられた様々な様式、劇場にかけられた様々なプログラム…。そうしたいちいちを、ミルハウザーはカタログのように並べてみせます。例えば、こんな風に。

アウグストははじめのうち、下宿と仕事場の行き帰りの、魅力的な店が両側に立ちならぶ、木の葉のそよぐ裏通りを歩くのを楽しみにしていた。あらゆる色あいのオレンジ色や黄色が揃った、車輪のように丸く大きなチーズが並ぶ店。オーブンから出てきたばかりの、ずしりと分厚い黒パンを売るベーカリー。高く伸びた煉瓦の階段を上ったところにある民家の玄関。さまざまな乗馬鞭やぴかぴかの革ブーツを陳列したウィンドウ。きらきらと真珠のように光る魚が、どんより曇った目に口をぱっくり開けて、明るい黄色のレモンスライスをかたわらに横たわっている店。石段の上にまた二つ玄関が見える。それから今度は、らっぱ型補聴器、木製の義足、ガラスの義眼等を取り揃えたウィンドウ。そして明るい緑の菩提樹の葉を映し出す、暗い色のワインボトルが並ぶウィンドウを経て、角の煙草商に行きつくのである。

いいですねえ。アウグストと一緒に、裏通りをぶらついている気分になる。ここで面白いのは、アウグストがこれらの店に入るわけじゃないってことですね。ただ、外から眺めるだけ。まさにカタログ。並べることに意味があり、眺めることに快楽がある。そんな彼が百貨店のショーウィンドウ用に自動人形を作るというのも、うなずけます。見る側から見せる側へ。ショーウィンドウのガラスの向こうの景色と、ガラスに映った自分の姿が重なるような面白さ。
では、彼はどんな人形を作るんでしょうか? アウグストが最初に作った自動人形は、時計職人である父にプレゼントしたものでした。恰幅のいい紳士の姿をしたこの人形は、チョッキのポケットから懐中時計を取り出し眺めるという動作をくり返します。このミニチュアの懐中時計もちゃんと時を刻んでいるという精巧さに驚いた父親は、この人形を店先に飾ることにします。これが、アウグストのキャリアのスタート地点。そしてのちのち、アウグストは百貨店のためにこんな人形たちを作ります。

等身大のマネキンが並ぶウィンドウでは当初、流行の衣装をまとった二人の女性のからくり人形が、時おり顔を上げてはおどけた視線を交わしながら、マネキンからマネキンへとゆっくりとした足どりでそぞろ歩いていた。今度はそこへ新たにミニチュアの従者が一人加わり、御婦人方に言いつけられて小さな鋏を取り出し、板に巻いた布をしかるべく切り取り、彼女たちの眼前で、マネキンの一人が着ているのと同じドレスを作りはじめるのである。

裁縫をする人形! そのありえないような精巧な技術にも驚きますが、僕が魅力を感じるのは、着飾った等身大のマネキンのそばで、自動人形によって買い物劇が繰り広げられるという、入れ子のような構造です。マネキンのマネをして同じ服を欲しがるミニチュアの御婦人。二重の虚構。これ、パースが狂うようなくらくらする感じがありますね。時計屋のウィンドウで人形の手にした懐中時計が動いているのと、同様の構図です。この入れ子構造は、のちにアウグストがハウゼンシュタインと組んで、自動人形の芝居を劇場にかける際にも登場します。

劇場は小さく、座席も百あまりしかない。だがそれでも、彼の目的にはどう見ても大きすぎる。そこで彼はまず、およそ人間の背丈ほどの、持ち運び可能な小型劇場を作り、これを舞台中央に置いて、内側から照明を照らすことにした。

素晴らしい。舞台の上の小型劇場! 劇場という小宇宙の中にしつらえられた小小宇宙! さらに、ここで上演された舞台がまた素晴らしい。特に『幻想小曲集』と題された演目は、ぞくぞくするほど魅惑的です。これから読む人のためにその内容は書かないでおきますが、こういうことを考え出せるのが、ミルハウザーのすごさだとつくづく思います。
さて、天才アウグストのよき理解者であり、仕事仲間となるハウゼンシュタインですが、彼のどこかうさん臭い人物造形も、なかなかユニークです。

彼にしても人形作りにはささやかながらも才能があったから、エッシェンブルクの人形の驚くべき質の高さは、一目見たときから認識していた。だがそれと同時に彼は見抜いていた――エッシェンブルクの自動人形が、新たな時代の真のシンボルたる、安物の模造品にやがては駆逐されてしまうだろうということを。だからこそベルリンにおいても、どうせ避けられぬ運命ならばと、自らその模造品の僕(しもべ)となることを選んだのである。現代の民衆の心をかちとるために――特にドイツの民衆の心をかちとるために――どの水準まで品位を落とせばよいのか、それをこまごま計算するのはなかなか愉快な作業であった。だが実際、世紀全体が凡庸さに向かって邁進していた。若き厭世家はそれを嘆くどころか、人類の現状に対する自分の軽蔑が正しかったことの証明を見出して、悦に入るばかりだった。

この若き厭世家が、ハウゼンシュタインです。才能よりも知性に秀でた陽気なペシミストといった感じでしょうか。芸術を凡庸さに引きずり下ろす大衆を「下人」と呼び、大衆はそういうときにいつも「何か立派な大義を持ち出してくる」と演説をぶったりします。「十九世紀とは何よりもまず運動の世紀だ」と喝破し、映画の出現を予言してみせたりします。山っ気たっぷりで韜晦癖のある人物ですが、憎めない人物ですね。何故なら、彼はアウグストのような天才にはなれないことを自分で知っているから。凡人の僕には、ハウゼンシュタインの気持ちのほうがわかる気がするんですよ。
ハウゼンシュタインの作る自動人形は、大衆の欲望を刺激するために「上品と卑猥さを巧みに結びつけた」ものでした。例えば、こんな感じ。

サーカスのリングを、小さな一頭の馬がぐるぐる回っている。体は美しい艶やかな黒色に塗ってあるとはいえ、馬の動きは何とも稚拙でぎくしゃくしている。馬上には一人の女性が乗っている。彼女は鞍もつけずに、両腕を広げ、片脚をうしろにまわしている。あたかも玩具としての本性を強調するかのように、ほかの自動人形の半分ほどの大きさで、動きもごく限られており、ほとんど単なる普通の人形というに近い。しかし、実在の有名な裸馬乗りのイギリス人女性を明らかに想起させるべく作られた肌色のタイツが生む色気といい、猥褻と決めつけることはできないにせよやはり挑発的にはちがいない脚と小ぶりの尻といい、可能な限り見る者の気をそそるよう実に念入りな計算がなされていた。さらに、ぴかぴかの革靴をはき黒い口髭を生やしたサーカスの団長が、時おりいかにもぎこちない動作で鞭をぴしっと叩くのも、そういった淫靡さを盛り上げていた。

ぎこちないぎくしゃくした動きだからこそ生まれるなまめかしさ。人間をなぞるのではなく、人形であることを意識させるような人形。ニセモノの持つ妖しいエロティシズムを見事に表現していると思います。アウグストの精巧な人形もいいですが、僕はこちらの稚拙な人形にも心魅かれるものがありますね。それはアウグストの安っぽい模造品かもしれませんが、そもそも人形自体が人間のニセモノじゃないですか。
19世紀は運動の世紀であると同時に、複製技術が発達し始めた世紀でもあります。ニセモノ文化のはじまり。ホンモノを目指したところにアウグストの偉大さがあり、ニセモノの魅力を突き詰めたところにハウゼンシュタインの新しさがあります。そしてミルハウザーは、おそらくそのどちらにも魅かれている。それが、この作品の味わい深さになっているように思います。
ウィンドウの向こうとこちらが反射しあい、右を見ても左を見てもニセモノのからくり人形、劇場を出てもまた劇場。ミルハウザーのミニチュアの世界は、アウグストの人形のように精緻で、ハウゼンシュタインの人形のように虚構性を謳歌している。そして何より、「読む快楽」に満ちています。


ということで、今日はここ(P105)まで。最初から気合い入れ過ぎて、長々と書いてしまいましたが、次からはもうちょっとサラッといくつもりです。