『アインシュタインの夢』アラン・ライトマン【2】


もう一度おさらいしておくと、この小説は、アインシュタインの見た夢という設定で、現実とは異なる様相の時間を持つ世界が描かれた4ページほどの掌編群で構成されています。
ある世界では、時間は円を描いてくるくる回ります。ある世界では、時間が常に枝分かれしていきます。ある世界では、時間は絶対的なものとして神のように崇められています。ストーリーと呼べるようなものはなく、ただただこういう世界があります、というのが羅列されていく。言わば、別世界観光ガイドブックのような趣。

この夕暮れ、雪をいただいたアルプスのくぼみに太陽がつかのま腰を落ちつけたあいだに、湖畔にすわり、時間の手ざわりについて考えてみよう。推測をめぐらすなら、つるつるの時間やざらざらの時間、とげだらけの時間や絹のような時間、堅い時間や柔らかい時間もあるだろう。しかし、この世界では、たまたま時間の手ざわりがねばねばしている。

「時間の手ざわりについて考えてみよう」って、そんなこと考えたこともなかった。こんな調子で次々描かれる様々な時間のあり方を読んでいるうちに、僕らの「時間」についての概念が広がっていきます。これは、ちょっとした脳マッサージですよ。


では、続きです。これら夢を描いた掌編群の合間に、若きアインシュタインの姿を描いた短い章が挿入されているんですが、今回は、その「インタールード」から。
夕暮れの通りを歩くアインシュタインと、友人ベッソーのささやかな会話。

「ローマの弟から手紙がきてね」とベッソーはいう。「ひと月ほどうちへ泊まることになった。アンナはあいつが好きなんだよ。いつもスタイルがいいとおせじをいってもらえるもんだから」アインシュタインはうわの空で微笑する。「弟がうちに泊まってるあいだは、役所がひけてからきみとつきあえなくなる。だいじょうぶかい?」
「え?」アインシュタインがききかえす。
「弟がうちに泊まってるあいだはあんまりきみとつきあえなくなる」ベッソーはくりかえす。「きみひとりでだいじょうぶかい?」
「もちろんだよ」とアインシュタインはいう。「心配はいらない」

新たなプロジェクトに没頭するアインシュタインを、さりげなく気づかうベッソー。そのことにアインシュタインは気づいているのかいないのか。こうしたさりげないやりとりから、二人の関係性がほの見える気がします。
ところで、この小説は、ここに至るまで「アインシュタイン」という言葉が出てきてないんですよね。というより、人名が出てこない。そのせいか、このパートは、ふいにカメラのピントが合うような感覚があります。ずーっと謎めいた夢の記述が続いていたところに、安定した現実の描写が挟まれることで、いい感じのアクセントになっている。


人名が出てこないっていうのは、この小説の特徴だと思います。固有の人物が登場しないため、ここに描かれる夢はどれも普遍的な真理を描いているような感触がある。それに、夢って基本的に一人称のものだと思うけど、アインシュタインの夢は客観的描写に徹していて「私」がどこにもいない。要するに、夢っぽくないんですよ。淡々とその世界の仕組みを記述しているだけで、物語があるわけでもないし、夢のようなでたらめさや奔放さがない。むしろロジカルでスタティック。以前読んだ、ケリー・リンクのほうがよっぽど夢っぽいです。
じゃあ退屈かと言ったら、そうでもないんですよ。例えば、「一九〇五年五月十五日」の夢。

時間のない世界を想像してみよう。イメージだけの世界を。
生まれてはじめて海を見て、うっとりとなった浜辺の少女。夜明けのバルコニーに立つ女と、ほどいた髮、ゆるやかなシルクのガウン、素足、唇。クラム通りのツェーリンゲン噴水に近いアーケード、砂岩と鉄で造られたそのアーチの曲線。静かな書斎にすわり、傷ついた表情で女の写真を手にした男。空を背景にした一羽のミサゴ、大きくひろげた翼、羽毛のあいだにさしこむ日ざし。がらんとした講堂の中にすわり、まるで舞台に立ったように胸をときめかせる少年。冬の島の積雪の上に印された足跡。夜の水面に浮かぶ一隻の船、その遠い明かりは黒い空に光る小さな赤い星のように淡い。鍵のかかった薬戸棚。秋の道に散りしく美しい赤と金色と茶色の枯葉。仲たがいした夫と話しあうために、家のそばで茂みの陰にうずくまって帰りを待つ妻。ひとりの青年が最愛の場所で過ごす最後の散歩、その小道を濡らす春の一日のやわらかな雨。

この夢では、この調子で、ひたすら様々なイメージが列挙されます。カメラが切り取った瞬間を、ただただ並べ立てているようなもの。少女や少年、男や女、妻や青年には人名は与えられず、彼らの物語が語られることもなければ、彼らについての感想が述べられることもない。にもかかわらず、この静謐な美しさはどうでしょう。何か、世界の真理に触れているような気がしませんか?
この文体の淡泊さは、科学の言葉に似ています。事実が曇らないよう、「私」の存在を消した文体。それが「アインシュタインの夢」という設定に、よく合っている。そして、この科学の言葉が詩の言葉のように思えてくる。
ちなみに、今回読んだ中で、いちばん好きだったのは、「一九〇五年五月十一日」の夢です。そこは、時の経過とともに秩序が増していく世界。散らかったテーブルは片づけられ、割れた花瓶はもとどおりになる。人びとは、自然の力が秩序を回復させてくれるのを待つだけでいい。これは、片づけが苦手な僕にはとてもありがたい世界です。でも、この夢が本当に面白いのは、このあと。

春にこの町を訪れると、またちがったすばらしいながめにお目にかかれる。春の季節には、住民が自分たちの秩序正しい人生に飽きるからだ。春になると、人びとはやっきになって自分たちの家を荒らしまわる。外からごみを掃きよせ、椅子をこわし、窓ガラスを割る。春になると、アールベルガー通りをはじめとする住宅街で、窓の割れる音や、さけびや、怒号や、笑い声が聞こえる。春になると、だれもが予約なしで人に会い、予約を記入した手帳を燃やし、腕時計を捨て、徹夜で酒を飲む。この発作的ならんちき騒ぎは夏までつづき、そこで人びとはふたたび分別をとりもどして秩序に逆もどりするのだ。

春の心がざわめくような気分が、描かれています。何だか無性にバかげたことをやりたくなる、春。時間の姿が違っても、この春の疼きは変わらないというのが素晴らしい。科学論文のような淡泊さで描かれていても、どこかほんのりあたたかいのは、人びとの暮らしを描き出しているからじゃないかな。


ということで、今日はここ(P81)まで。次々といろんな夢を読まされているうちに、だんだんこの不思議なリズムにハマってきます。