『愛の続き』イアン・マキューアン【7】


小説らしい小説を読んだなあというのが、実感です。
緻密な心理描写、知的なユーモア、多義的な物語などなど、小説のおいしいところをたっぷり盛り込み、なおかつ、信頼できない語り手や手紙・レポートの挿入などさりげない構成上の仕掛けもあり、にもかかわらずまったく難しくない。とても読みやすいんですよ。
この前に読んだゴンブローヴィッチが、壊れまくってたせいで余計にそう思うのかもしれませんが、設計図がしっかり引かれているというか、よくできている。物語をコントロールしている作者の手の上で躍らされているような気がして、憎たらしくなるほどです。
僕が楽しんだのは、決して溺れることのない語り口が、逆に語り手の狂気を感じさせるという仕組み。マキューアンは、手紙やクラリッサの視点を挿入することで、ジョーの語りを検証するよう、読者を巧みに仕向けます。僕は途中からずっと、ジョーを疑いの目で見てましたからね。彼の言ってることは、本当なのか?
ジョーは、その職業からも「お話を語る人」であることがわかります。目の前の事実を取捨選択し、それに意味づけをして物語る。確かに、ジョーの語りは洗練されていて、読みやすく面白い。でもそこには、意識的無意識的に関わらず、様々なバイアスがかかります。それは、事実をねじ曲げ、身勝手に解釈し、脳内に目の前の世界とは別の世界を作り上げる、ストーカー的な愛に狂ったパリーの相似形です。
「物語」とは「狂った愛」によく似ている。「物語る」ということが孕む魅力と危うさを描いた小説は、それ自体が物語としての魅力と危うさをたたえていなけりゃならない。要するに、面白くて恐ろしくなきゃいけない。マキューアンの「読みやすさ」は、そのハードルを見事にクリアしていると思います。


ということで、『愛の続き』、おしまいです。