『愛の続き』イアン・マキューアン【6】


はい、読み終えました。19章の事件以降、物語に弾みがついて後半はほとんど一気読み。スピーディーな展開あり、またまた手紙の挿入があり、そして余韻を残す終章がありと、たっぷり堪能しました。「小説を読んだ」っていう手ごたえのある、読後感。


「21」の章。
緊迫感溢れる展開が続きますが、例のごとくひねった表現のオンパレードが、ひきつった笑いを引き起こします。
例えば、ワックスでピンと固めたカイゼル髭の男を見て、その髭の比喩を次々と思い描くシーン。

歯ぐきに打ちこんで外側にひん曲げた錆び釘(くぎ)。ぼくが子供時分に作った帆船の模型の尖(とが)ったマスト。ふきんかけ。

「ふきんかけ」って…。思わず、髭にふきんを引っ掛けてるマヌケな絵面が浮かんで、笑いを誘う。ここ、ホントは笑ってる場合じゃないシーンなんですけどね。
次の比喩も可笑しいです。

二人の男は部屋の中央で微動だにせずに組み合っていた。呼吸するのが精一杯のようだった。あまり近寄っているので、顔のあいだに反転図形のろうそく立てが浮かび上がった。

「反転図形」って、これは「ルビンの壷」って呼ばれるだまし絵のことですね。この発想のバカバカしさ! 何度も言うようですが、笑える状況じゃないんですよ。
このあともあれやこれやがあって、事件は終息に向かうんですが、もうそれはここに書かなくてもいいでしょう。


ラスト「24」の章は、冒頭のシーン同様、ピクニックです。ローガンの未亡人ジーンとその子供たち、そしてジョーとクラリッサ。あのときから何が変わってしまったのか? 変わらないものは何なのか?
ローガンの幼い娘にお話をせがまれ、ジョーは川の側でこんな話を語り出します。

ぼくはしばらく考え、そして川を指さした。「この世にあるうちでいちばん小さい水を考えてみようか。誰にも見えないくらい小さな……」
芝生の上でしたように、レイチェルはまた眼の玉をぐるぐるさせた。「すっごくちっちゃいしずくみたいなの?」
「それよりずっと小さいんだ。顕微鏡だって見えないよ。ほとんど何もないくらいなんだ。水素の原子がふた粒、酸素がひと粒、不思議な強い力で結ばれる」
「わかった」とレイチェルは叫んだ。「ガラスでできてるんだ」
「そこでね、そういうのが何百個、何千万個もあらゆる方向に積み重なって、ほとんど果てしもなく伸びていくわけだ。次に、河はすごく長くて浅い滑り台だと考えてみようか。曲がりくねった泥だらけのウォーターシュートだ。それが何百マイルも伸びて海につながっていく……」

これは、いいですね。科学ライターの面目躍如。子供にこんな風に語れるなんて、ステキじゃないですか。実は、僕はずっと、いまひとつジョーのことが好きになれなかったんですよ。頭はいいんだろうけど、何だか鼻につくヤツだと。でも、やっぱり、彼はお話を語る人なんですね。最後の最後で、ジョーのことがちょっとだけ好きになりました。
前回のピクニックをきっかけに、彼らの日常はぼろぼろと崩壊していきました。いろんなことが変わってしまった。でも、それでも日常を続けていくことができるんじゃないかと、淡い期待を残してこの小説は終わります。


と思ったら、まだ終わらない。このあと「付録」として精神医学のレポートが出てくるんですが、これも小説の一部なんですよ。ここでようやく、『愛の続き』というタイトルの意味が明らかになります。これが強烈なアイロニーになっていて、僕らの「愛」についての解釈が揺らぎ始める。「付録」なんてうそぶいてますが、穏やかなラストシーンのあとにこんなオマケをつけるなんて、マキューアンも人が悪い。やだなあ、またわからなくなってくるじゃないですか。
愛ってなあに?


ということで、『愛の続き』読了です。