『愛の続き』イアン・マキューアン【4】


この小説の隅々までコントロールされているような文章には、語り手ジョーが科学ライターという設定が活きています。明晰で面白い。でも、一見オーソドックスな小説に見えるところが曲者で、この一人称は、実は「信頼できない語り手」なんじゃないかという匂いが濃くなってくる。9章と11章では、その仕掛けが表面化してきます。マキューアン、かなりのテクニシャンです。


では、「9」の章から。
まずは冒頭部分。

クラリッサが帰ってきたときのことは、彼女の視点から語った方が分かりやすいだろう。少なくとも、後になってぼくが組み立てたクラリッサの視点から。

ほほう、そうきましたか。300フィート上空のノスリの視点になったと思ったら、今度はクラリッサの視点になる。一人称としてはルール違反ですね。「後になってぼくが組み立てた」っていうエクスキューズも、逆に怪しげです。例えば、こんなシーン。

ドアに鍵(かぎ)を差し込んだとき、ジョーが帰っているだろうこと、必要なときにはジョーはいつでも上手にやさしくしてくれることを思いだして、クラリッサはいくぶん気分がよくなるのを感じる。

クラリッサの気持ちを、ジョーが「後になって組み立てた」描写ですが、ちょっと違和感がある。自分に甘いというか、ホントかなあという気がします。バイアスがかかってるような気がするんですよ。これは、クラリッサの視点じゃなくて、クラリッサがこう思っていてほしいというジョーの視点なんじゃないでしょうか?
この夜、二人は大ゲンカをしてしまいます。イヤなことがあって疲れているクラリッサと、自分が科学者になれなかったというコンプレックスに不意に突き動かされるジョー。どちらもがお互いを必要としながら、相手を受け止めるキャパシティをなくしちゃってる。
この気持ちのすれ違いを、マキューアンは実に念入りに描き出します。自分が相手の何に苛立っているのか、自分の何が相手を追いつめるのか。原因→結果→原因→結果…。まるで解剖をするかのように、それぞれの行動や心理を分析してみせる。しかも、現在形で描写されているため、まるでその場に立ちあっているかのような気分になります。これは、読みどころですね。

ジョーは深く息を吸い込み、窓から振り返って息を吐き出す。自分を落ち着けているところ、理性的な立場からもう一度議論を始めるところ、極端に走ることを拒否する理性的な人間であることを見せつけようとする。静かに抑えた声で、不必要なほどゆっくりと話す。われわれはこんなやり口をどこで学ぶのだろう? その他のあらゆる感情と同じく、遺伝子に書き込まれたものなのだろうか? それとも映画の影響だろうか?

自分の主張は議論に耐えないと知っているクラリッサは自分が有利なうちに立ち去らねばならず、不当な扱いを受けたという思いが自分を駆り立てるうちに部屋から出ていく。「勝手にしろ」とジョーはクラリッサの背中にどなる。鏡台の椅子(いす)を持ち上げて窓ガラスに投げつけたいくらいだ。さっさと出ていくのは自分であるはずなのに。

うーん、意地悪い書き方ですね。コミュニケーションの力学を、報告書のような文体で冷ややかに捉えている。冷静さをことさら強調するような口ぶり、捨てぜりふのあとの劇的な退場。身に覚えがありますよ、僕だって。でも、それをわざわざ指摘されたくないですよ。
「10」の章では、またいつもの一人称に戻ります。「ジョーの視点」で到達した結論は、こうです。

ぼくは突然明るい愛に満たされてクラリッサのことを考えた。ぼくらのいさかいを解決するのは簡単なはずだった――ぼくの振る舞いがよくなかったとかぼくが間違っていたとかいうのではなく、ぼくが反論の余地のないまでに完璧(かんぺき)に正しく、クラリッサが単に誤解しているだけなのだ。家に帰らないと。

何て身勝手な結論! ぼくは正しくって、彼女は誤解をしているだけなんだ。これじゃ、まるでパリーです。「彼女はわかっていないだけなんだ」っていう、ストーカーの論理と一緒。これじゃ、わかり合えるはずがない。ジョーは、ホントに大丈夫でしょうか?


「11」の章で、またしてもギミックがあります。
書き出しはこうです。

親愛なるジョー、ぼくは幸せが電流のように体を駈けめぐるのを感じています。目を閉じると、ゆうべ雨のなかで道をへだてて立っていたあなたの姿が浮かび、無言の愛が鉄索のようにしっかりと二人を結んでいたことが思いだされます。ぼくは目を閉じ、神があなたを存在させてくれたこと、ぼくをあなたと同じ場所に存在させてくれたこと、ぼくらの不思議な冒険を始まらせてくれたことに声を出して感謝します。

そう、この章は、パリーからの手紙です。つまり、「パリーの視点から」描かれている。まあよくある手といえばそうなんですが、ちょっと不意打ち感があって面白いです。ついでに、全体の構成の中でこの手紙がどのような位置にあるのかっていうのは、注意しておいたほうがいいでしょう。いや、まだわかりませんが、ちょっと気になります。
それにしてもこの熱烈な愛の言葉、普通のラブレターに見えなくもない。大仰で思い込みが激しくて、でもラブレターなんて、そんなものだと言えなくもない。でも、ジョーの側に立てば、パリーの独りよがりの文章はかなり不気味です。

ぼくはあなたの生活についてかなりのことを知っています。それは僕の仕事であり使命でもあると思ったのです。ぼくはあなたの日常生活に引き込まれ、それを知ることを要求されました。そう、あなたのおっしゃることはなにも拒めません。あなたについての試験でもあったらぼくは一等でしょう、ひとつの間違いもないでしょうから。ぼくを自慢に思ってくださるでしょうね!

思いませんよ、むしろ迷惑なんだから。ということに気づかないのが、ストーカーたる由縁。パリーは、ジョーの様々な仕草や行動から、勝手に「合図」を読み取ります。勝手に解釈し、勝手に喜びに震えている。
狂っている? そうかもしれません。でも、愛って何だろうなって思います。だって、二人の間に愛があれば、このラブレターも謎めいた合図も、すべてロマンチックなものに変換されるんですから。外から見ただけじゃ、その違いはわからない。やっかいですね、これは。


「12」〜「14」の章へいきます。
ジョーは、気球事故で亡くなったローガンの夫人ジーンに会いに行きます。でも、何のために?
おそらくは、気分転換です。すっかりねじれてしまったクラリッサとの関係や、脅かされ続けるパリーから離れて、気分を変えたいという気持ち。これまた、ずいぶんと勝手な話ですね。悲しみに打ちひしがれた未亡人を慰めるような顔をしてますが、慰められたいのは自分なんだと思います。
もちろん、そんなに都合よく話は進みません。「あそこで起こったことに関してお知りになりたいことがあるかと思いまして」というジョーに、ジーンはこう答えます。

「夫がどうして命を落としたか、わたしがくり返し聞きたいと思っていらっしゃるんですか」

身も葢もありませんが、彼女が知りたいのはそんなことではありませんでした。このあと彼女は思いもよらぬことを言い始めます。これは書かないでおきますが、ちょっと予想外の展開でした。
夫の死後に残された遺品から、ジーンはジョーとは別の物語を組み立てます。彼女の視点から見ると、同じ事故が全く別の顔を見せるんです。この物語が真実かどうかはわかりませんし、ジョーは、「苦痛による狂気だけが考え出せる」理論だと断じています。でも、それはジョーが紡ぐこの物語だってそうかもしれないし、パリーから見た愛の物語も、クラリッサから見た悲しみの物語も、そうなのかもしれない。それぞれの視点で見ると、すべての出来事は別々の様相を呈してくる。結局、何が真実なのかはわからないし、人の数だけ真実があるということでしょうか。


ということで、今日はここ(P192)まで。ちょうど半分くらいまで読み終えました。
ストーリーはさほど派手ではありませんが、マキューアンの冷徹な心理描写はかなりスリリングです。男女の愛のもつれ、男から男へのストーカー的な想い、夫を失った未亡人の悲しみと怒り、いろんな愛が絡み合って、じわじわとジョーを締め上げていくようです。でも、愛ってなあに? 『愛の続き』というタイトルが意味するものは、何なんでしょうか?