『愛の続き』イアン・マキューアン【2】


前回の最後に、「端正な文章で適度に読みやすい」って書いたんですが、この語り手である「ぼく=ジョー」の職業は、どうやらライターのようです。なるほど言われてみれば、「書く人」の自意識みたいなものがチラチラする文章かもしれません。
ということで、3〜5章までいきます。


ではまず、「3」の章から。
クラリッサとジョーは、家に戻って気球事故のショックについて語り合います。何度も何度もあの出来事を反復し、お互いの気持ちを慰める。そして愛し合い、友人を招いて食事をします。その席でも二人は、事故について語らずにはいられません。

ぼくらはそれを夫婦者のスタイルで話した――しばらくのあいだひとりで話を運び、あるところではパートナーが口をはさむのを無視し、別のところでは折れて主導権を渡した。二人が一遍にしゃべった箇所もあったが、それにもかかわらずぼくらの話は一貫性が増してきていた。はっきりした形を備え、いまや安全な場所から語られていた。(中略)ぼくらは話を誇張したく思い、経験された事実と語られた逸話とをへだてる深い淵(ふち)に大仰な語りのロープを投げ渡したい誘惑にかられるのだった。

「夫婦者のスタイル」ってのがいいですね。阿吽の呼吸というか、7年同棲しているだけのことはある、親密さが伝わってきます。でも、この二人、結婚しないのかな? まあ、大きなお世話ですが。
語っているうちに、その出来事がだんだん形を整えていくということは、よくあります。「物語化」ってことですね。でも、それによって実は「出来事」からは遠ざかっているんじゃないかと。いや、このカップルは、あえて例の事故から遠ざかろうとしていたんでしょう。そのくらいショックが大きかったということです。語ることで、「事実」を「逸話」へと変えようとしている。
友人たちも帰り、夜中の2時。ベッドに入った直後に電話がかかってきます。ジョーは、受話器の向こうにこんな声を聞きます。

相手の言葉はいまでも完璧(かんぺき)に覚えている。「ジョー?」ぼくは答えなかった。誰の声かはすでに分かっていた。「知っていてもらいたいんだ。あなたが何を感じているかぼくには分かる。ぼくも同じことを感じてるから。愛してる」
ぼくは切った。

うわ、ヤだな。真夜中の電話で「愛してる」です。しかも、恋人がすぐ側にいるってのに。穏やかじゃないですね。しかも、どうやら男からの電話です。「誰の声かはすでに分かっていた」って言うけど、誰なのかは説明されません。「誰?」と聞くクラリッサにも、「間違い電話だよ」とジョーはうやむやにしてしまう。またしても、思わせぶり。まあ、「あなたが何を感じているかぼくには分かる」っていう無神経な同一化から、「たぶんあいつだろうな」とは思いますが。


「4」の章。翌日の朝。
ここで、ジョーの職業が語られます。自由業、科学関係の記事を書くライターのようです。なるほど、無神論者なわけです。
けっこう忙しく働いてるらしく、朝から記事を一本仕上げ、そのあとはラジオ講座のプロデューサーと打ち合わせ。出演を断るジョーに、それでも熱弁を奮うプロデューサー。

そうして、ほとんど面識がなかったにもかかわらず、おそらくはそれゆえにこそ、ぼくは熱意のお返しに昨日のことをすべて語ったのだった。抑えようがなかった。誰かに告げずにはいられなかったのだ。エリックは辛抱づよく耳を傾け、適当な箇所で声を上げたり首を振ったりしたが、ぼくに向けられた視線はまるで汚染されたものを見るよう、突然変異した不幸のウィルスがオフィスに持ち込まれるのを見るようだった。

マスコミ関係者の軽薄ぶりをからかってるようでもありますが、ほとんど面識のない相手に「事故で人が死ぬ現場に居合わせた」なんて話されたら、そりゃ困るでしょ。どう反応したらいいものか、持てあますに決まってます。この主人公、どうもシニカルなところがありますね。「熱意のお返しに」って言い方も、イヤミっぽいです。
そのあとジョーは、図書館で調べものをします。「科学における逸話・物語形式の消滅について」の文章を書く予定だとか。以下は、そのための資料を読んでのコメント。

この文章でぼくが気に入ったのは、ストーリーを語ることが持っている力と魅惑とによって判断が曇らされているという点だ。

面白いですね。「物語化」が判断を曇らせる。物語は科学の敵、ということでしょうか。
そんなときジョーは、ふいに誰かが自分を伺っていることに気づきます。気にすまいと思えば思うほど気になってしょうがない。しかし、ジョーが顔を上げた瞬間、その人物は外へ出ていってしまう。目に入ったのは、その人物の靴だけ。そして、ジョーは恐慌をきたしてしまいます。さっきまでそこにいたヤツは、誰なんだ?


「5」の章。
えも言われぬ不安を抱えたまま、ジョーは家に帰ります。そして、あれこれ思いをめぐらせる。

ぼくは気を鎮(しず)めるために、直接患部外の痛みを専門とする夕刻の診療所、テレビのニュースに向かった。今晩の題目は中央ボスニアの森に作られた共同墓地、癌(がん)にかかった大臣が囲っていた愛人、殺人公判の二日目。ぼくの心を和らげてくれたのはいつに変わらぬニュースの形式だった。BGMの切迫したビート、キャスターのなめらかな早口、すべての悲惨は相対的なものだという心地よい真実、そして最終的な鎮痛剤、天気予報。ぼくは二杯目を作るためにキッチンに戻り、グラスを手にキッチンのテーブルについた。パリーがぼくを一日中つけていたとすれば、ぼくの住所も知っているはずだ。つけていなかったとすれば、ぼくの精神状態はかなり不安定なのだ。が、ぼくの精神は基本的に安定しているのだから、やはりパリーはぼくをつけていたのであり、対策を考えねばならない。

「直接患部外の痛みを専門とする夕刻の診療所」っていう皮肉な言い回しに、まず目がいきます。他人事の痛みが自分の不安を和らげてくれる。言わんとすることはわかりますが、さっきまで自分だって、自分の痛みをラジオのプロデューサーに押しつけてたじゃないか、とも思います。そもそも、昨日、自分にまったく責任がないとは言い切れない人の死に遭遇したばかりなのに、そのことも頭に浮かばないようです。
さて、ゆうべの電話の主も、図書館の人影も、どうやらパリーのようです。ただし、そのことで感じている不安の根拠は、なんだか妙です。「ぼくの精神は基本的に安定しているのだから」って言うけど、そんなの自分で分かるのかな? むしろ、こういう理由にならない理由を挙げてる時点で、ちょっと不安定になってるんじゃないかという気すらします。
ニュースのあと、ジョーはとりあえず目の前の仕事に向かいます。クラリッサが帰ってくるまで、不安から逃げ込むかのように原稿書きに集中する。

ぼくは十二ページをクリップでとめて、手の上で重さをはかってみた。ぼくが書いたものは真実ではない。事実の追求のため書かれたものではなく、科学ではない。これはジャーナリズム、雑誌のジャーナリズムであって、その究極の基準は読んだときの面白さなのだ。

こういう自己言及が、どうにも引っかかるんですよ。「物語は科学の敵」というような原稿を、科学的な裏づけを欠いたまま面白可笑しく記事に仕立て上げる。ねじれています。第1章で「三百フィート上空からぼくらが見える」と語ってた、あの感じ。読んだときの面白さのためなら、見てもいないものをも綴ってしまうというのに、ちょっと似てるんじゃないかな。
どうもこの小説は、「語ること」についてのあれやこれやが目につきます。気になります。非常に気になりますとも。


ということで、今日はここ(P83)まで。ちっともロマンチックじゃない、真夜中の愛の告白。ちょっとミステリ仕立ての展開になってきました。この先が、気になりますね。