『愛の続き』イアン・マキューアン【1】


愛の続き (新潮文庫)
再開したと思ったら、勢いづいてけっこうな頻度で更新してます。この勢いをあまり落とさないように、今回は読みやすそうな本にしました。
『愛の続き』イアン・マキューアン
です。
新潮文庫で370ページ程度。ボリュームも苦にならないほどだし、再開2冊目には、ちょうどいいんじゃないかと。
イアン・マキューアンはイギリスの作家。けっこうな数が翻訳されていて、わりと人気があるっぽいです。タイトルだけ見たら、まず僕が手に取らなさそうな小説ですが、評判のよさに魅かれて読んでみることにしました。


では例のごとく、「1」の章から。
どんな小説も最初が肝腎。この小説は、こんな風に始まります。

始まりを記すのはやさしい。ぼくらは日光のもとでカシの木の下に座り、吹きすさぶ強い風をできるだけ防いでいた。ぼくは草の上に膝(ひざ)をついて、手にはコルク抜きを持ち、クラリッサがぼくにボトルを渡すところだった――八七年もののドーマス・がサックを。これこそが始まりの瞬間、時間という地図に突き立てられた目印のピン先だった。

ああ、『フェルディドゥルケ』の一人称に比べて、この読みやすさよ。お話の出だしとしては、申し分ない。申し分なさすぎるくらいです。冒頭で、これがスタート地点ですよという宣言をしているのがニクイですね。映画で言えば、主人公の顔を映さずボトルを持った手のアップから始まる感じかな。「時間という地図に突き立てられた目印のピン先」という、適度に気の利いた言い回しもいい感じです。
このピクニックと思しき穏やかなシーンは、男の叫び声で破られます。それを聞きつけた「ぼく」は、その声のほうへと走り出す。それが、今後の諸々の出来事を決定づけたのだと「ぼく」は言います。どうやら、よからぬことが起きるようです。期待させますね。
ところが次の段で、いきなり「アレッ?」と思わせられます。

三百フィート上空からぼくらが見える。視点はぼくらがさっき見かけたノスリ、滑空し、円を描き、乱気流にもまれて上下していたあの鳥だ。百エーカーの野原の中心めがけて音もなく走ってくる五人の男。

いきなり俯瞰の描写になるわけですが、これ、語り手が実際に見た光景じゃないですよね。あとから振り返って「鳥の目からはこう見えたはずだ」って、再構成した光景。しかも、「さっき見かけた」「あの鳥だ」って言われても、そんな話は初めて聞くわけで、ちょっと引っかかります。
まあ、このノスリについては、あとでちゃんと語られるんですが、どうもこの語り手は情報を小出しにしていくクセがあるようです。この5人の男が何に向かって走っていたのかも、もうちょっとページをめくらないとわからない。過去を振り返って、その出来事にああだこうだと意味づけをしていくんですが、出来事の中心はなかなか語ろうとしないんですよ。要するに、思わせぶり。
野原の真中にあったのは、巨大な気球でした。コントロールを失った、ヘリウムの気球。男がそれをロープで地上につなぎ止めようとしており、気球のかごには男の孫が乗っている。たまたまその場に居合わせた、「ぼく」を含めた5人の男たちは、それを助けようとして気球のそばへ集まります。しかし、気球は突風にあおられ、男たちのうちの1人、42歳のローガンを、事故で死なせてしまいます。

ぼくが絶対のリーダーだったら悲劇は起こらなかったろうと、いまでも思う。後になって、何人かがそれと同じことを言った。が、ひとりの意志が強力に表われてくるような時間もチャンスもなかった。誰がリーダーでも、どんな計画でも、ないよりはましだったろう。原始時代の狩人(かりゅうど)の集まりからポスト工業化社会にいたるまで、人類学者が研究してきた人現組織のうち、率いる側と率いられる側の区別を持たぬものはない。民主主義の手法で解決された緊急事態などかつてないのだ。

チルタンの傾斜地の数フィート上空に吊(つ)り上げられて、ぼくらのグループは倫理が昔から抱える解き難いディレンマを経験していた。自分たちか、それとも自分か。
誰かひとりが「自分」と言ったのだ。その瞬間、「自分たち」を主張することに意味はなくなった。概して、ぼくらが善であるのは、善であることが意味をなる場合に限られる。よき組織とは善であることに意味を与えてくれる組織のことだ。突然、かごの下にぶら下げられたぼくらは悪い組織となり、まとまりを失いつつあった。

人類学や社会学を引きながら、状況を説明しているんですが、こういうところちょっと面白いですね。「民主主義の手法で解決された緊急事態などかつてないのだ」「自分たちか、それとも自分か」、このあたりのフレーズは妙に説得力があります。非常にもっともらしい。上手いこと言うなあと。とは言うものの、死んでしまった男は帰りません。それは厳然たる事実として、「ぼく」らの前にあるのです。


「2」の章も、引き続き草原のシーン。

ペースを緩めなければならない。ジョン・ローガンが落下した後の三十秒を慎重に考察してみよう。同時的に、ないしは急速に連続して起こった出来事、口にされた言葉、ぼくらがどう動いたか、あるいは動けなかったか、ぼくが何を考えたか――これらの要素を分類しなくてはならない。あの出来事におそろしく多くのことが続き、おそろしく多くの分岐・細分がこの初期の数秒間で行われ、この出発点からかくも多様な愛と憎しみの岐路が開かれたのだから、少しばかりの考察が、あるいは空論でさえも、とにかく役立ってくれるだろう。

「ペースを緩めなければならない」とは、つまり語るスピードを遅くしてもうちょっとあの瞬間について考えてみよう、って言ってるわけです。まだ2章分しか読んでませんが、この語り手は、映画のように自在に視点や時間を操ります。クローズアップ、俯瞰、ジャンプカット、巻き戻し、リピート、スローモーションに一時停止。
もう一つの特徴は、けっこう理屈っぽいところでしょうか。気球事故のエピソードを、様々な角度から眺め、考察し、もっともらしいコメントを加えていく。このもっともらしさは、まるで「ぼく」が自分を納得させようとしているようにも思えます。
しかし、あれこれ語る割に、彼は自分のことは未だほとんど語っていません。わかるのは、会話のなかで「ジョー」と呼ばれていること、中年にさしかかった年齢であることくらいかな。前章で、気球事故の現場に居合わせた人々のプロフィールが並べられている箇所がありますが、そこでも彼のプロフィールだけはまったく触れられません。単なる思わせぶりなのか、何か仕掛けがあるのか、それともたまたまなのか…。
ちなみに、「ぼく」とピクニックをしていたクラリッサは、「ぼく」と7年間同棲している恋人で、イギリスの詩人ジョン・キーツの研究者。インテリ同士のカップルという感じですね。そして、もう1人、ジェッド・パリーという青年が出てきます。気球を助けようとした5人の男のうちのひとり。
パリーは、死体の前に立つ「ぼく」に、こう語りかけます。

「クラリッサが心配してますよ? ぼく、行って見てくるって言ったんだけど?」
ぼくの沈黙は敵意を含んでいた。パリーがファースト・ネームで人を呼ぶ厚かましさ、もっと言えばクラリッサの気持ちを知っていると公言するずうずうしさを嫌う年齢にぼくは達していたのだ。この時点ではぼくはパリーの名前も知らなかった。ふたりのあいだに死んだ男が座っていようと、人間関係のルールは守られるべきだった。

パリーは、馴れ馴れしい調子ではなく、おずおずと気弱にこの言葉を発したんですが、それでもムッとくる気持ちはよくわかる。ほとんど初対面の男に、自分の恋人を名前で呼ばれるのは、親密な空間にズケズケと踏み込まれるような不快さがあります。その鈍感さがカンにさわる。
それだけじゃなく、パリーは「ぼく」にふたりで祈ろうと提案します。「ぼく」が断っても、執拗に祈ることを勧める。あなたには神様のご加護が必要なんだ、と言わんばかり。このしつこさも、ちょっとイヤな感じです。何がイヤなの? やってみればいいじゃない。特別なことじゃない。試してごらんよ。祈ることがイヤなんじゃなくて、そんな調子で強要されるのがイヤなんですよ。最後に、「ぼく」はこう答えます。

今回もぼくはためらい、何も言わないですまそうかと思った。しかし、真実は知らせてやらねばならない。「誰も聞いてないからですよ。上の方で聞いてるやつなんかいないんだ」
パリーは頭をそらし、その顔じゅうになんとも喜ばしげな笑みが広がった。

「ぼく」はきっぱりと無神論者だと宣言したわけです。にもかかわらず、パリーはうれしそう…。どういうことですか、これは?


ということで、今日はここ(P46)まで。しょっぱなから気球事故。ツカミとしてはかなりいいんじゃないでしょうか。端正な文章で適度に読みやすいんですが、かと言って読み飛ばせないのは、さりげなく何かが隠されてそうな気がするから。それが何かは、まだわかりませんが。