『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ【7】


長らく中断したものの、うーん、読んでよかった。読めてよかった。
やっぱりポイントは、物語のど真ん中に出てくる「フルーツ・ポンチ」でしょう。あそこで、僕のエンジンが一気に動き出しました。「おお、そういうことがやりたかったのか!」ってのが、見えてきたというか。この感覚はあらすじを読んだだけじゃわからない。読書の醍醐味のひとつですね。
ちなみに、僕が読んだ『フェルディドゥルケ』は、平凡社ライブラリー版ですが、これ絶版っぽいです。残念。なので興味を持った人は、図書館か古本屋をあたってみてください。
で、この平凡社ライブラリー版には、本編のあといくつもの解説類が付いています。まず、訳者・米川和夫さんによる「訳者あとがき」と「『世界の文学』版訳者解説」。そしてゴンブローヴィッチの手による「ブエノスアイレス版序文」と「フェルディドゥルキストへの手紙」。さらに、西成彦による解説「非国民のエクソダス」と、島田雅彦によるエッセイ「不服従の手引き」。うーん、盛り沢山。
これらで、この小説のテーマ的なものは、あらかた解説されています。「未熟さ」について、「形式」について、つまり「おちり」と「つら」について。その他諸々について。なので、ここでそれをまたくり返すのはやめておきましょう。
その代わり、この小説の読みづらさと、その解消方法を、我が身を振り返りつつまとめてみたいと思います。


この小説が読みづらい理由の一番大きなものは、ダメ人間の一人称で語られているということでしょう。ちょっと町田康を連想させたりもしますが、ゴンブローヴィッチのほうが、遥かにややこしくねじれてる。語り手をカメラにたとえるとすると、このカメラはかなりポンコツで、ピントはズレるわ手ぶれはするわ露出はおかしいわで、何を撮りたいのかよくわからないといった感じです。
それもこれも、語り手の立ち位置がいまひとつはっきりしていないからですね。ユーゼフは、自分が大人だか子供だかわからない。基点が定まらないから、言ってることがフラフラするんですよ。例えば、キーワードである「未熟さ」ですが、これを肯定しているのか否定しているのか、よくわからない。「女学生」や「作男」を称賛しているのか軽蔑しているのか、よくわからない。
それから、彼の受け身なところも気になります。中盤まで、彼はただただ流されるばかりです。その間、彼の考えていることが延々綴られていくわけですが、物語を動かすような力にはならない。
そのくせ、饒舌なのも困ったところです。観念的な独り言が次々くりだされ、それがほとんど思い込みのようなところもなきにしもあらず。妙に反復の多かったり、妙に大仰だったりする、独特の言い回しも引っかかります。そんな一人称のぐだぐだ語りに付き合うのは、慣れるまではけっこうしんどい。
ということで、これから読む人へ、僕からのアドバイス。まずは、これ。
「わからなくて当たり前だと思え!」
どうせ、ユーゼフだって混乱してるから、自分が何を書いているのかよくわかってないんですよ。矛盾してたり、話があっちこっちに脱線したとしても、あんまり気にしないことです。「ん、これはどういう意味だ?」なんてやってると、迷路にはまり込みます。読んでて途方に暮れるときは、語り手も途方に暮れてるに違いないと思いましょう。
とは言うものの、意味のわからない文章を延々読まされるのは、苦痛かもしれません。そこで、もう一つのアドバイス
「冗談だと思え!」
実際、これはけっこう笑える小説です。これは、声を大にして言っておきたい。なんせ、「おちり」ですよ? クソ真面目な「お文学」のわけがない。

われわれは昔むかしから、あまりにくそ意地悪く、われわれに執念深く冗談を仕かけてくるものを、冗談によって回避するすべを学んできたからだ。

ゴンブローヴィッチもそう言っています。全体像がよく見えないときは、細部の可笑しな言い回しを楽しむようにすれば、けっこう読めちゃいます。目につくままに、僕が思わず笑っちゃった箇所を挙げてみましょう。

ムィズドラルとホーペックはあまりの打撃に口もきけないほどだった。ムィズドラルのほうは、興奮のあまり、針金のきれはしを機械的に手にとると、考えもなく塀の穴に差しこんで、むこう側にいた母親の一人の目を傷つけてしまった。すぐに針金は捨てられたが、母親は塀のむこうで呻いていた。

いまさらあとに引くには遅すぎた。この世が存在しているというのも、ただひとえに、いつもいつも、あとに引くのがこうして手遅れになるそのおかげなのではなかろうか。

洗面所に入ってゆくまえに、あい変わらず額を高くあげたまま、トイレットのほうへ足をそらすと、自然の機能を恥じてはならぬのを知っている婦人といった格好で、そのなかへ、明確な、さめた意識とともに文化的に知的に消えていった。そして、そこから出てきたときには、入っていったときよりも、いっそう誇らかな顔色があった。

おれたちが角(かど)でつかまえたほかの一人は、縦から見ても横から見ても作男にはうってつけ、申し分なさそうに見えたのに、この男は男で、なんたること、話の合間に〈しかしながら〉という言い回しをはさむくせがあったのだ。

これだけ抜き出しても何のことやらという感じかもしれませんが、こういうちょっとしたところがいちいち可笑しいんですよ。そんなこんなを楽しんでいるうちに、だんだんこの文体にも慣れてきて、問題は「おちり」と「つら」にあるんだってことが、ぼんやりと見えてきます。
その調子で読んでいるうちに、「フルーツ・ポンチ」までたどり着ければ、あとはきっと大丈夫。
これら、読みづらさの原因であるギクシャクした文体も、至るところに仕掛けられた冗談も、「未熟さ」っていうテーマから導き出されたものだという気がします。成熟した真面目な文体で未熟さを語るってのは、自己矛盾ですからね。つまりゴンブローヴィッチは、自らを未熟さの中に身を置いて書くために、あえてやってるわけ。だから、読む側も、わけのわからないふざけた文章のうねりを、そういうものだとして味わえばいいんだと思います。
それから、これを日本語に移し替えた訳者・米川和夫さんにも拍手を贈りたいです。「おちり」って訳語を当てただけでも称賛に値するんですが、全編、この調子でうねるようなつんのめるような独特のリズムを作っています。名訳かどうかはわかりませんが、ほとんど第二の作者って言ってもいいほどユニークなフレーズがてんこ盛りです。
作家の島田雅彦は、巻末のエッセイでゴンブローヴィッチの文体について、次のように書いています。

ポーランド語を用いながらも、紋切り型に我慢がならず、といって、それを乗り越える詩的言語を編み出せるわけでもなく、結果的に型破りな個人言語を駆使することになる。それは毒舌のうわ言のようであり、幼児語のようでもある。いったい誰が彼の言葉に耳を傾けるだろう。この超マイナー言語は国会や法廷はもちろん、あらゆる公の場においても使い物にならないのはいうまでもない。だが、それゆえに普遍的たりうる。

まったく同感。どんなものにも使えないからこそ、どんな境界も越えていく言葉。まるで、学校から下宿から地主の屋敷から、次々と逃げていくユーゼフのようです。
そして今一度、「フルーツ・ポンチ」のシーンを思い出します。あれこそ、無能な者だからこそ可能な反逆の姿だったはず。使い物にならないからこそ、すべての「形式」を撃つことができることに、ユーゼフが気づいたのはあの瞬間だったんじゃないかな。


ということで、『フェルディドゥルケ』は、これでおしまい。
次は、絶版じゃないものを読みましょう。一応、イアン・マキューアンの『愛の続き』の予定。これは新潮文庫なので、わりと簡単に手に入るはずです。