『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ【6】


ページをめくるのが止められなくて、ついに読み終えてしました。あの10ヶ月の中断は何だったんでしょうね。もう細かくストーリーは追いませんが、11〜14章、約150ページ分をだだっといきます。


まず、ここへ来てまたしても、短い話とその前書きが挿入されます。
「11 『子供で裏うちされたフィリベルト』の前置き」。
ここでは、この小説に描かれている苦痛について語られています。

どこに本書の根源的苦痛があるのだろうか? どこだ、どこだ、苦痛のそのそもの母体は? そこで、研究をかさね思索をつみ洞察をふかめるにつれ、筆者の目にはいよいよ明白になってきたのだが、主要な大本の苦痛というのは、思うに、悪(あ)しき形式の苦痛、悪しきexterieur(外観)の苦痛にほかならない。(中略)他人によって制限されることから生じる苦痛――われわれがわれわれ自身にかんする他人のこわばった不自然なせまい想像の檻(おり)のなかでおしつぶされ、息をつめられかけている苦痛こそ、大本の苦痛にほかならぬのだと、こう言ったほうがいいのかもしれない。

「つら」を貼り付けられるってのが、これですね。僕が「妙な圧力」って言ってたのもこのこと。さすがにここまで読んでくると、この小説がいかにこの「苦痛」を手変え品変え描いていたかがピンときますね。そしてタチが悪いのは、この「妙な圧力」を無視しようとする振る舞いこそが、この圧力を意識していることになってしまうことです。その影響下から逃れられなくなる。それから逃れるためには、ユーゼフのようにその環境から逃げ出すしかないのです。
そして、この前置きを受けて、「12 子供で裏うちされたフィリベルト」。
この挿話は、わずか5ページと短いんですが、かなり面白いです。玉突きで連鎖していく展開が笑えるし、とんでもない出来事をポーカーフェイスで記録しているような文体もいい。まるでモンティ・パイソンのようです。本屋で試し読みするなら、この章でしょう。


さあどんどんいきます。「13 作男 つまり 新しい落とし穴」。
ユーゼフとミェントゥスは、作男を探してさまよいます。しかし、どこにも作男は見当たらない。二人が街を歩きながらあらゆるものに悪態をついて回る様子も可笑しいんですが、省きます。
そして、道中で偶然会ったユーゼフの伯母さんの家に招待され、そこでついに作男に出会います。この家は田舎の地主でその使用人の一人が、まさに理想の作男だったのです。やっとのことで理想とする相手に出会えたミェントゥスは、興奮を隠せません。

「ユージョ、おめえだって見ただろう、あいつのつらをさ――ぜんぜん歪められてねえ、あたりめえのつらだ! 作り顔などこれっぱかりもねえつらさ! 作男の典型だとも。あれよりましなのは、どこにいったって見つけられっこねえよ。頼む、助けてくれ! 一人じゃとてもじゃねえ、うまくやれる自信がねえんだよ!」
「落ち着けよ! いったいなにをしようっていうのさ!」
「分からねえ、自分でも分からねえのさ。もし仲よくなれたら……もしあれとうまくきょう……きょう……だいぶんになれたら……」恥ずかしそうにこう打ち明けた。「兄弟……分にな! 仲……間になるんだ! おれはぜひ……頼む、後生だ!」

作男に理想を見ているミェントゥスは、まるで恋をしているかのような口ぶりです。いや、ホントに恋をしているのかもしれない。「きょう……だいぶん」の「……」にこめられた熱病のような想い。第3章の作り顔対決以降、「つら」を貼り付けたまんまのミェントゥスにとって、素朴で、粗野で、自然な作男こそ、自分がそうありたい憧れの存在なのです。
でも、ホントにそうかな? 僕には、作男も「作男」のつらを貼り付けているように思えたりもするわけで…。従順な召使いのようなつらをしているけど、本質は違うんじゃないかなと。
一方、ユーゼフはミェントゥスを通して、地主と召使いの奇妙な関係に気づきます。

イヤ、まったく、自分で使っている召使いに観察されるのだ! ど百姓の口の端(は)にのぼり、いいように品定めされるのだ! 召使いのどん百姓的プリズムの屈折にたえまなしにさらされなければならない――いつでも部屋に入れるうえ、人の会話を小耳にはさむこともできれば、その立居振舞のはしばしにいたるまで仔細に心にとめることのできる召使いたちの恐るべき精神のプリズム――現に、おまえの坐っているテーブルや、横になっているベッドにまでコーヒーなぞを運んでくるではないか!

以前読んだ、スウィフトの『奴婢訓』を思い出させますね。つまり、旦那様は、実は召使いがいなければ成り立たず、常にその召使いの視線にさらされているわけです。旦那様は召使いを恐れるあまり、いかにも旦那然とした振る舞いをすることになります。つまり召使いによって、旦那様の「つら」を貼り付けられているのです。


「14 勇みづら そして 新しい罠」、最終章です。
前章とこの章は、かなり長い章なんですが、このあたりまでくると、もう読むのを止められません。
さあ、この地主の家で何が起こるのか? ユーゼフは、どうなってしまうのか? ここには書きませんが、あれよあれよという間に、とんでもないことになります。

おれはいつのまにかベランダに出ていた! おりしも雲のかげから月があらわれたが、なんということだろう! 月というよりはおちりだった! 木立のうえに、とてつもなく大きなおちりがかかっている。この世界の上にかかった子供のおちり! ソウ、おちりだ。なにもない、ただのおちり。

盆のような月ではなくて、おちりのような月! 「おちり」とは「お尻」の幼児語、つまり未熟さのことです。ああ、おちり、おちり! どこまで行ってもついてくるおちり。おちりからは逃げられない。いや、おちりこそ、ユーゼフの行く手を照らしているのかもしれません。未熟さが指し示す未来。人は誰もが子供で裏うちされているんです。
この小説は、最後にこんな悪態ついて終ります。

あばよ、ちばよ、あかんべえ、
読んだやつのあほうづら!

どひゃー、です。言われちゃったよ。ゴンブローヴィッチは、子供の小憎らしさで、最後にテーブルをひっくり返します。僕のほうはあほうづら下げたまま、『フェルディドゥルケ』読了です。