『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ【2】


70年前のポーランドで書かれたこの小説ですが、30過ぎても自分が大人だという実感を持てない主人公ユーゼフは、現代の僕らにとても近しい存在のように思えます。無為な日々を過ごし、らちもないことをうだうだと考える。自らを「青二才」としながらも、反抗する若者ってのとはちょっと違う。教師然としたピンコが現れると、「教師ぜめだけはよしてくれ!」とか呻きながらも、へいこらと従っちゃうんですよ。だらしないというか、情けないというか。そんなところも、近しさを感じますね。まあ、いつの時代にも、ダメ人間はいたってことでしょう。


では、「2 幽閉 そして ひきつづく縮小」の章。
ユーゼフは、ピンコによって、10〜20歳くらいの若者たちが集まる学校へ放り込まれます。30過ぎて、子供扱いされ、学校に入れられる。ダメ人間への再教育でしょうが、不条理な匂いがぷんぷんします。ピンコの存在の威圧感は、どこかカフカの小説のようです。
この学校の生徒たちは無邪気さに欠けると話す教師に、ピンコはこう言い放ちます。

「どうしたら無邪気さが目ざめるか、今すぐここでお見せしましょう。賭けてもよろしいが、三十分もすれば、子供たちは平均以上の天真爛漫ぶりを発揮しますよ。わたしの計画は、学童を観察するところから始まるわけで、つぎに、考えられるかぎりの素朴な方法を用い、観察者であるわたしが純潔で無邪気な天使しか見ていないことを知らせてやるのですな。これは、しぜん、かれらの癇にさわることになるでしょうから、かならず自分たちの無邪気ではないところをきそって誇示してみせましょうが、まさにそこがつけ目なのでしてね、そのとき、学童はやっと真実の、正真正銘の――われわれ教育者にとっては夢のように甘い無類の純潔さ、無邪気さのうちに、罠にでもかかるように、落ちこんでくるというわけですな!」

つまり、無邪気な天使じゃねーぞって反抗してみせるそぶりが、子供らしい無邪気な行為に見えてしまういうことでしょう。従っても無邪気、反抗しても無邪気。逃げ場なし、ですね。実際、校庭で遊んでいた生徒たちは、ピンコに観察されていることに気づいたとたん、自然に振る舞えなくなってしまいます。ピンコをバカにするかのように猥褻な言葉を囁き、ヒステリックな笑いを上げる。それこそ、ピンコの思うつぼです。従おうが、反抗しようが、ピンコの影響下から逃れられない時点で、負けなんですよ。
前章で、「青二才」と見なされることで、ユーゼフが引き裂かれていたように、生徒たちもまた二つの派に引き裂かれてしまいます。無邪気さや純潔を讚えるスィフォンと、猥語を叫び下品な笑いを上げるミェントゥス、二人の生徒の派閥に分断されてしまう。彼らは自らを、それぞれ「青少年」と「若いもん」と称します。でも、でも、ピンコから見れば、どちらも無邪気な「青二才」です。うーん、何かイヤですね。
校長であるピュルコフスキは、ピンコにこう言います。

「おちり、おちり、おちり万歳ですな! イヤ、先生、お骨折りかたじけない! 新しい生徒をお世話ねがえて、まったく、あだやおろそかには思いませんよ! もしもこうしてだれもかれもみんな小さくできるものなら、わたしらは今よりまだ二倍は大きくなっているところなのですがな! おちり、おちり、小さなお尻。先生はお信じになりましょうか――わたしらによって人工的に子供にされ、縮小された大人たちのほうが、自然な状態の普通の子供たちよりも、はるかにすぐれた本校の構成要素をなしておるということですが。(中略)純潔な邪気のないおちりを作るわれわれの教育方法は、ほかに類のないものです」

おちり、おちり、またおちり。このお尻へのこだわりは、何なんでしょう。「ケツが青い」という言い方がありますが、この「おちり」こそ、まさに青いケツ、子供の象徴です。この学校は、生徒を成長させるのではなく、無邪気な子供にしてしまおうとしているようです。教育の名の下に行われる、巧妙な抑圧、巧妙な管理。君らは、バカのままでいい。その方が扱いやすい、とでも言いたげです。何だか、全体主義の匂いがしてきますね。この目に見えづらい圧力は、当時のポーランドの社会状況を反映しているのかもしれません。でも、本当にこれは、余所の国の昔のお話なんでしょうか? 僕にはそうは思えないんですけど。
この学校の授業風景も見ておきましょう。国民的詩人について教師が語り、その詩のどこがいいのかさっぱりわからないと言う生徒にこう言い放ちます。

「偉大な詩歌は、それが偉大であり、また詩歌である以上、われわれを感動させぬことはできないのだ。つまり感動させるのだ」

でたらめもいいとこです。「じゃあ、何故、その詩人が偉大なのか?」と問われたら、「それは人々を感動させるからだ」とくるわけです。トートロジー。この教師が、何ひとつ自分の頭で考えていないことがわかります。「偉大だから」「古典だから」「有名だから」、そんなのは、感動する理由になりません。でも、この学校の生徒は、「偉大だから感動する」か、「偉大だから反抗する」のどちらかの道を選ぶことになります。どちらの立場も、自分で感じて感動するってことを置き去りにしてる点では、大差ない。
こんな学校は、さっさと出ていくに限ります。ユーゼフがここにいなきゃならないいわれなんてないわけだし。でも、できないんですよ。逃げ出そうって気持ちが湧いてこない。だって、彼は自分で自分のことを「大人」だと思えないんですから。


というところで、「3 罠 ひきつづく圧迫」の章です。
この学校の授業風景を、もうちょっと紹介しましょう。今度は、生徒に過剰な信頼を寄せる教師が登場します。

「なに、ボプコフスキ君! きみは、自分の意志とはかかわりのない原因のため、課題の準備ができなかったと言うのかね? イヤ、心配しなくてもいい。きみには前のテキストから質問してあげよう。ナニ? 頭痛がする? イヤ、それはなによりなことだ。ちょうどここに興味ぶかい格言で、きみにうってつけというのが一つある――maxima de malis capitis(頭痛についての格言がね)。ナニ? ただちに手荒いに赴かなければならぬ要求をきみは感じるというのかね? オオ、ボプコフスキ君! なんのためだね? これまた古代人のもとにためしがあるのだよ! すぐさまきみに教えてあげよう――五の巻の有名なpassus(一節)だが、シーザーの全軍が新鮮さを欠いた人参を食して、やはり、同様の運命に見舞われたのだね。

サボろうという口実を次々と潰していくわけですが、やっかいなのは、この教師に悪意がないところです。好意的解釈で言ってるんですよ。これは、うっとおしい。例えば、興味のないことに誘われたとき、「あ、ちょっとその日は都合がつかないな」って断ることってあるじゃないですか。こういう場合、一番困る応対は、「じゃ、いつなら空いてる?」って訊かれることです。この教師がやってるのは、それに近い。
そして、休み時間ともなれば、スィフォンとミェントゥス、「青少年」と「若いもん」、両派閥の争いが再燃します。どちらも、自らに貼り付けたレッテルにがんじがらめになって、自然な行動を取れなくなってしまう。ユーゼフがこの学校から逃げ出せないのと同じ理由ですね。恐るべし、「青二才」の呪縛。
スィフォンとミェントゥスは、決着を着けるために「作り顔対決」をすることになります。それぞれの「青少年」の顔と「若いもん」の顔をぶつけ合うわけです。こうなってくると、何がなにやら…。

スィフォンはまず闇のなかから光の溢れる場所に出てきた人のようにまたたきをすると、敬虔な驚きの色を表しながら、左右を見まわし、目の玉を動かしていたけれど、そのうち、やにわに視線を上に投げて、大きく目を見開き、口をあけ、まるで天井になにかあるのに気づきでもしたように、小声で叫び声をあげると、ものに魅せられた表情をとり、そのまま、うっとりと酔ったような、霊感にうたれたような顔つきを保ちつづけるうちに、ふと片手を胸にあてて、ため息を一つついたのだ。
するとミェルンタルスキは背中を丸くしてちぢこみ、下のほうから、すさまじい猛烈な気迫のこもった嘲りの反作り顔でスィフォンにうってかかったのだった。やはり目玉をキョロつかせ、上にあげたかと思うと、カッと見開き、口は口でなにかに気を奪われている子供のように大きくあけ、こうして工夫に工夫をかさねたその顔をぐるぐる輪をかくようにして振りたてていたのだ。あんぐりあけた口のなかにはえが一匹とびこんでくるまで、振り続けていたのだ。口のなかのはえはそのまま食べてしまった。

あーあ、食べちゃった。もはや、バカ合戦の様相です。そもそも、「青二才」の呪縛ってのは、無理矢理作り顔にさせられるってことでしょ。なのに、作り顔対決なんかしたって、何の解決にもなんない。
ユーゼフは、こうした二人の対決を眺め、「どこに行ったのだ――三十歳、おれの、おれの三十歳は?」とか言いながら、呆然と立ちつくすだけです。どうにも、だらしない。
そして、そんな教室にピンコが登場するところで、この章は終わります。ゲッ、またあらわれたのか…。


ということで、今日はここ(P124)まで。何だか、よくわからない展開になってきました。物語がどこへ進もうとしているのか、さっぱりわかりません。