『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ【1】


フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)
あまり間を空けずに、次の本を。
『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ
です。
何だか、濁点だらけで舌を噛みそうなタイトルと作家名ですね。ゴンブローヴィッチは、ポーランドの作家・劇作家。本作は1938年の作品だとか。帯に「永遠の青二才による『不服従の手引き』」とあったもんで、まさか約70年前の作品だとは思いませんでした。これだけ見ると、まるでパンクじゃないですか。うーん、タイトルも不可解だし、初めて読む作家なので、ちょっと予想がつきません。
まあ、考えていてもしょうがないので、読んでみることにしましょう。


「1 誘拐」という最初の章から。
この小説は、こんな風に始まります。

火曜日、夜はもうまったくのところ終わってしまったのに、すっかり明けきるにはまだ間があるという、例のまるで人けのないぼんやりした時刻に、目をさました。不意に目がさめると、すぐに停車場までタクシーをとばそうと考えた。なにしろ、旅にでるのだという気がしたからだ。――一分ほどしてから、やっと、おれのためには、停車場に汽車はとまっておらず、どんな時も告げられはしなかったのだと、じつになさけない気持ちで思い知った。濁った明かりのうちに横たわったまま、おれの体はがまんならぬほど恐れおののき、その恐怖のせいでおれの心をおしつけ、心は心でまた体をおしつけ、そのため、もっとこまかな筋という筋までが期待にふるえて痙攣した。なにも起こりはしない。なにも変わりはしない。けっしてなにもやって来はしない。なにを企てたところで、なにも、なんにも始まりはしない。これは不在の恐れ、存在しないという恐怖、生きていないことの不安、現実でないことの危惧、内部の分裂、拡散、消失にたいするおのれの全細胞の生物的な叫びだった。

「全細胞の生物的な叫び」とかなんとかやけに大げさに語ってますが、要は「漠たる不安」を感じていると。どこかへ行きたいけど、どこへも行けやしないっていう、アレです。若者特有の、もやもやした気持ち。もうちょっと見てみましょう。

ちょっと前、おれは三十という避けようもないルビコンの川を越え、里程のしるべ石を一つあとにした。戸籍やうわべからは、おれも成熟した大人に見えてはいたものの、しかし、実際はそうではなかった――では、いったい、おれは何者だったか? 三十づらさげたブリッジの囲み手? つまらぬ生活の用をたし、期日などというものも持つことのある、その場かぎり、行き当たりばったりの仕事師? 本当におれの置かれている状況というのはなんだったろう? このおれは喫茶店やバーなどを歩きまわり、人と会っては言葉をかわし、ときには思想までも交換しあってはいるけれど、その状況はというと、それがどうも一向にはっきりしなかった。自分でも一人前の大人か、青二才か分からないでいるしまつだったのだ。こうして人生のなかばに達したというのに、おれはまだあれでもなければ、これでもなく――つまるところは、けっきょく、何者でもなかったわけだ。

あらら、30過ぎてたんですか。今で言うフリーターみたいなもんでしょうか? ふらふらして、一向に腰が定まらない。そしてこのあと延々と、彼のぐだぐだした観念的な一人語りが続きます。俺は何者だ? 俺は何でこうなっちゃったんだ? 俺はいったいどうすればいいんだ?
いや、わかりますよ。僕だって、三十づらさげて自分が大人なのか何なのかよくわからなくなります。もやもやした不安やとらえどころのない憂鬱も共感します。でもこのあとも、延々と彼の観念的なぼやきが続くんですよ。やけに饒舌なオレオレ語り。これは、けっこううっとおしい。
彼は本を書くことで、大人への仲間入りをしようと試みます。その小説のタイトルは『成熟途上の記録』。これ、ゴンブローヴィッチの処女作と同じ題ですね。まあ、それはひとまず置いておいて、この処女作への評価は、語り手である彼にとって納得いくものではなかったようです。その恨み辛みを彼は本作にぶつけます。このあたりのしつこさったら、ないです。はっきり言って、うざい。でも、そのうざさがだんだん可笑しくなってくる。例えば、わかったようなことを言うえせインテリたちを皮肉るところ。名付けて、「文化おばさん」ですよ。わあお。

ここでは、われわれのおばさんたちの心のこもったし親しみやすく家庭的な判断、意見について言っているのではない。イヤ、どちらかというと、おばさんはおばさんでも、まったく様子のちがった文化おばさん――自分の判断を雑誌新聞でのべたてるあのうざうざざいる四分の一作家、おまけにつけられたような半(なかば)批評家たちの意見におれはふれたいのだ。(中略)アア、かれらは自分たちが独立独歩、断固としていて、そのうえ深みもなければならないのを知っているので、したがって、たいていは独立独歩で深みがあり、適度に断固としていて、しかも、おばさん的善意に満ちみちている。おばさん、おばさん、おばさん!

イヤミたらたらです。「うざうざいる」ってのは、いいですね。僕もどこかで使ってみたい。でもって、「おばさん的善意」! それにしても、こうも痛烈に書かれると、この作品に対してあれこれ書くのがためらわれますね。「半批評家」とか、言われそうで…。なかなか扱いづらい小説です。
さて、この調子で、彼の「未熟さ」に関する考察が、次々と綴られていきます。その一つ一つは、よくわかる。でも、彼の思いは何だかねじれてて、通して見るとちょっとややこしい。これは、彼が大人と子供の間で引き裂かれているからでしょう。セミ・インテリの俗衆を憎みながら、「その低いところに俺を青二才として押しとどめておいてくれるから」と、その評価を甘んじて受けてしまう。成熟した自己に憧れながらも、「おれは成熟というものには、なんとしても身丈(みたけ)が合わなかった」と嘆く。けっこう、面倒くさいタイプですよ、この人。

しかし、おれはあいにく青二才で、青くささがおれの唯一の文化体系だった。おれは二重にとらわれて、制約されているのだ――いまだに忘れられずにいる自分の子供のときの過去によって一度、それから、人がおれについていだくイメージの子供、つまり、かれらの心にうつったおれの漫画によっていま一度。おれは緑のうれわしげなとりこ、深く茂った薮のなかの一匹の虫にほかならなかった。

「緑」とは、「青くささ」の象徴です。ここでも、彼は引き裂かれています。自らの持つ青くささと、他人の評価によって定められる青くささ。未成熟を自ら選び取るしかなかったのに、「成熟途上=未熟」と見なされると、何か違う。何か気に入らない。そーゆーことじゃねーんだよ、っていう鬱憤がたまっていきます。これぞ、「青二才」といった感じの悩みですね。まったくやっかいです。
さて、うんざりさせられるようなこのうだうだしたお喋りの最後に、ちょっとだけ展開があります。彼の部屋に学校教師ピンコが訪れ、勝手に彼の書きかけの著作を読み始めるんですよ。いきなり、何なんだ?

おれは立ち上がろうとして、それこそ涙ぐましい努力をした。しかし、その瞬間、むこうはおれを鼻眼鏡ごしにいとも寛大な目つきで眺めたのだ。すると――不意におれは小さくなっていた。足があんよになり、手がおててになり、男が男の子になり、存在が小存在に化し、著作が作文と変わり、肉体がちっぽけな体となった。それにひきかえ、ピンコの方はなおのこと大きくなって、おれを眺めながら、そしておれの原稿を読みながら坐っていた。もう永遠に、てこでも動かぬというふうに坐っていた。

ちっちゃくなっちゃった…。さっきまでの威勢のよさはどこへ行っちゃったんでしょう? 彼は教師という権威の前になすすべもありません。そして、ピンコは、彼にこう言います。

「サア、ユージョ(ユーゼフの愛称)、おいで、学校へ行こう。」
「学校って、どんな?!」
「ピュルコフスキの学校さ。一流の学府だ。六年級にまだあきがある。おまえの教育はないがしろにされて来たからな。なによりも、足りぬところをおぎなわねば。」
「けど、学校って、また?!」
「ピュルコフスキの学校だ。なにもこわがることはない。われわれ教師というものは、小さいものをそれこそ愛しているんだよ。いい子だ、いい子だ。小さき者の我に来たるをとどむるなってね。」

すっかり子供扱いです。愛してるなんて言いながら、不気味な強制力がある。イヤですね、搦め手の束縛。そして、彼、ユーゼフは、ピンコに連れ出され、三十づら下げて子供の行く学校へと向かうことになります。ピンコは、「シッ、シッ、しりっぺたの青いお尻、おちり」とかなんとか言いながら、歩いてゆきます。足があんよに、手がおててに、お尻はおちりに…。思いもよらぬ不条理な展開。物語が、ようやく動き出しました。


ということで、今日はここ(P41)まで。
それにしても、「ピンコ」って、ポーランドでは一般的な名前なんでしょうか? 日本人の僕から見ると、ふざけた名前にしか思えないんですが。