『スペシャリストの帽子』ケリー・リンク【4】


今回は3編、だだっといきます。


「生存者の舞踏会、あるいはドナー・パーティー

オークランドにね、ミルフォードサウンドに行ったことのある男がいたの」とセリーナは言った。「世界の端に立ってるみたいだったって。おかしいのよ。その前には、たしか東京で彼と出会ったの。しばらく旅行してると、どこに行ってもおなじ人にばったり出くわすようになるわけ。だけど、絶対に名前を覚えられないのよね。しまいには互いにこんなふうに言うようになるの。『あなたとは知り合いだっけ? アムステルダムの、あの巨大な水槽のあるレストランにいた人?』それで小さな紙切れに住所を書いて交換するんだけど、いつだってその紙はなくなっちゃう。でも、それでいいのよ。だって、そのうちまた出くわすんだから」

ああ、ありそうな話です。バックパッカーたちの伝説みたいな。ジャスパーは、そんなことを語る女の子セリーナと旅先で知り合い行動を共にします。ここは地の果てミルフォード、二人のぎくしゃくとした道中を描いた話だと思っていたら、後半から何だかおかしなことになってきます。
二人は、トンネルを抜け、とあるホテルにたどり着きます。そこではパーティが開かれているんですが、これが妖しげなムードがぷんぷん。

部屋にはシャンデリアとテーブルに置かれたキャンドルがあり、通り抜ける風が灯りをちらつかせ、薄暗くする。キャンドルとシャンデリアのてらてらした黄色い光のあいだで、人々の顔は白い仮面が浮いているように見える。一人の男がジャスパーにぶつかり、ほほえんだ。その歯はやすりをかけたように鋭く尖っていて、ジャスパーはたじろいで身を引いた。彼が目にする人たちはだれもが血色が良くて赤らんだ頬と輝く目をしている――“まあ、おばあちゃん、なんて大きな目をしてるの?”火灯りが彼らの影を引き伸ばし、歪めて、床に尻尾のようにだらりと垂らしている。

影が尻尾のように垂れているという描写が、じわーっといやな感じを醸し出します。「まあ、おばあちゃん」のセリフは、「赤ずきん」でしょう。ケリー・リンクは、童話のイメージを効果的に使うのが上手いですね。メルヘンの根底にある残酷さが、このシーンの不気味さをより際立たせます。
さらに、この作品に頻出する「歯」と「火」のイメージも気になるところ。何かを暗示しているようですが、ケリー・リンクは、はっきりとそれを示そうとはしません。すべてが模糊とした夢の中のような描写が続きます。うーん、もやもやする。このとらえどころのなさから、これまでの短編のようにまたしても、このパーティに集う人たちが死者のように思えてきます。でも、ちょっと待って。「血色が良くて赤らんだ頬と輝く目をしてる」んですよ? 死人じゃないでしょ。
そうです、これは「生存者の舞踏会」なんですよ。みんな生きてる。そう気づいたとき、じわじわとわかってきます。言外に示されているものが、徐々に浮かび上がってくる。ああ、そういうことなのか…。
いや、正直、最初は何のことやらさっぱりわかりませんでした。でも、図と地が反転するように、このパーティに集まった人たちの正体がわかってきたときの、曰く言い難い後味の悪さったらないです。これは死者のパーティより、ある意味おっかないパーティですよ。見事です。


「靴と結婚」

これは、タイトル通り靴と結婚にまつわる4つの独立した章で構成されています。どれもストーリーよりも、不思議な雰囲気を味わうといった感じのお話です。
冒頭の「ガラスの靴」の章は、タイトルからもわかるように「シンデレラ」をモチーフにしています。フェティッシュでニューロティックな王子の側から語った「シンデレラ」。妄想と現実とが曖昧に溶け合った一人称の語りが、微妙な薄気味悪さを感じさせます。
でも、これはほんの序の口。この作品がホントに面白くなるのは、2つ目の「ミス・カンザス最後の審判の日」の章です。新婚のカップルがホテルで「美人コンテスト」を観ている、という設定らしいんですが、ケリー・リンクの他の作品同様、はっきりとしたことはわかりません。ただ、この美人コンテストの様子が、めちゃくちゃ面白い。妄想力爆発。例えば、こんな感じです。

正直言って、私たちは、ミス・ペンシルバニアのドレスに感心させられた。インタビューで、彼女が自分の服をすべて手作りしているのだとわかった。そのドレスには小さなスパンコールが四万個余りも手縫いされている。すべてのスパンコールを縫い付けるのに一年と一日かかったが、遠くからだとスーラの点描画のように見えるようになっている。描かれているのは、日曜日の午後の遊歩道。まさに芸術品だ。ミス・ペンシルバニアは母親と父親に手伝ってもらって、スパンコールを色分けした。彼女には三人の弟がいて、フットボール選手の彼らも総出で手伝った。弟たちの大きな手の上できらめく小さなスパンコールを、私たちは想像する。今夜、弟たちは観客席に座り、姉のミス・ペンシルバニアを実に誇らしげにしている。

面白いっ! こういうホラ話風のエピソード、好きなんですよ。この調子で次々と登場する出演者たち。尻尾のあるミス・ニュージャージーや、足が何本もあり水中バレエをしてみせるミス・ロードアイランドなどなど、まさに奇想の饗宴。まるでフェリーニの映画を観ているようです。あと、カンザスと靴と言えば、当然、『オズの魔法使い』ですね。彼女は、竜巻に巻かれるように高く舞い上がります。
さらに三つ目の章、「独裁者の妻」もユニークです。博物館の一角で暮らす老婆は、独裁者の妻だった女性。この博物館のガラスケースには、彼女が集めた様々な靴が陳列されています。これは、どうしたって、マルコス大統領夫人イメルダを連想させますね。

「私の靴たち」と独裁者の妻は足を止めて彼女を見つめる入館者に向かって言う。その言い方は人が「私の子供たち」と言うときのようだ。彼女にはなまりがある。いや、入れ歯がきちんと合っていないせいかもしれない。「みんなは靴のことを考えなさすぎる。あんたが死んだら、靴はどうなるんだい? あんたは死んでるのに、靴をどうしようっていうんだい? いったいどこに行くつもりなんだい?」
独裁者の妻は言う。「夫がだれかを殺すたび、私はその人の家に行って、靴を一足もらったものだ。頼もうにも家族もいなくなっているときもあった。夫はひどく猜疑心の強い人だったからね」

彼女の語る独裁者の残虐っぷりや靴へのこだわりも面白いんですが、ポイントは、そんな彼女自身も博物館の展示品の一部であるというところだと思います。見世物ですよ、これは。蝋人形館みたいなもの。そう言えば、前章のミスコンテストも、びっくり人間大集合でした。ケリー・リンクの現代性というか、ポップなところだと思います。
そして、最後の章は、「ハッピーエンド」という題の、さらりとした口当たりの短いお話。うーん、めでたしめでたし?


「私の友人はたいてい三分の二が水でできている」

これは、SF。僕は、ジャック・フィニィのある作品を連想しました。でも、女性の一人称でふうわりと語られているため、SFにありがちな大仰なところがない。日常の中の「少し(S)不思議(F)」といった感じです。
語り手である主人公の女性には、ジャックという男友達がいます。彼女は彼のことを気にしているようですが、決して恋愛には至らない。何故なら、ジャックの恋愛対象は、ズバリ、ブロンド娘だからです。電話をかけてきては、ブロンド、ブロンド、ブロンドの話ばっかり。ケリー・リンクは、「ブロンド娘は頭が悪くて性に奔放」という俗説を逆手に取ってみせます。男ってバカねえ、ってつぶやきが聞こえてきそうです。

三分の二が水でできている子が友人にいると私が言えば、その言葉から人は私の友人にそうじゃないのがいて、三分の二より多い子がいたり、三分の二より少ない子がいたり、ひょっとしたら三分の二が水以外のものだったりする場合もあって、三分の二がレモン・フレッシュ・ジョイでできている子もいるのかもしれないと思う。私が女性のうち何人かはブロンドだと言えば、その言葉から人は私がブロンドじゃないのだろうと思う。私はたぶんジャックを愛してはいないのだろう。

ここで、タイトルの言外にあるものを明かしているわけですが、そこからブロンドの話になっちゃうのが面白い。さらに、「人は私がブロンドじゃないのだろうと思う」っていう言い回しにも注目です。ちょっと気になりますね。語り手の女性は、果たしてブロンドなのか、そうじゃないのか? 彼女はジャックを愛しているのか、いないのか?
バカSF風のアイディアに、距離が縮まりそうで縮まらない、微妙な男女関係を重ねているところが独特です。このあたり、ちょっぴり切ない味わいを残しますね。


ということで、今日はここ(P342)まで。
ケリー・リンクの作品は、ホラーでもSFでも、すっきりと腑に落ちるような展開にはなりません。おかしなことが起きるんですが、それがどこから始まってるのかがよくわからない。いつの間にか、妙なことになってるんですよ。現実との境界があいまいなんです。そのせいか、読み終えても妙な余韻が残ります。じわーっと怖い、じわーっと切ない、じわーっと不思議。クセになります。
残すところ、あと2編。近々読み終えるつもりです