『スペシャリストの帽子』ケリー・リンク【1】

スペシャリストの帽子 (ハヤカワ文庫FT)

ごぶさたしてますが、何ごともなかったように、新しい本を手に取ります。
スペシャリストの帽子』ケリー・リンク
です。
ケリー・リンクアメリカの女性作家で、本作は彼女の第一短編集。SFやファンタジイの賞を獲るなど、アメリカ文学界でかなり注目をされている作家のようです。帯文では、柴田元幸も「ケリー・リンクアメリカ小説の新しい流れを誰よりも豊かに、愉しく体現している」と絶賛。これは、期待できそうです。


冒頭の「謝辞」では、大量の人名が挙げられています。感謝・感謝・感謝の嵐。その最後にギャヴィン・J・グラントという人物が挙げられ、こんなことが書いてありました。

彼はさまざまな物に加えて、靴を一足、ガラス製の義眼(壊してしまったけど)、小島麻由美Super Butter DogのCD、着物、それから私の三十回目の誕生日に紙に包んだ三十冊の本をくれました。

列挙されるモノたちに、少女っぽさを感じるのは、女性作家だっていう先入観があるせいでしょうか。そう言えば、女性の小説を「DOUBLe HoUR」で取り上げるのは初めてですね。
それにしても、小島麻由美Super Butter Dogを聴くアメリカ人女性…。気が合いそうです。あ、年齢も僕とほぼ同年代だ。
それでは、まず最初の話からいきましょう。


カーネーション、リリー、リリー、ローズ」

親愛なるメアリー(これが君の名前ならだけど)
きっと君は僕からの便りにひどく驚くだろう。本当にこの僕なのだけれど、それはそうとして、白状すると僕は君の名前を、ローラかな? それともスージー? オディール? きちんと覚えていないだけでなく、自分の名前も忘れてしまったようだ。いろんな組み合わせを試しつづけようと思う。ジョーはローラを愛している。ウィリーはスーキを愛している。ヘンリーは君を愛しているよ、ねえ、ジョージアだっけ? ハニー、僕のかわいい人。どれか正解はありそうかな?

先週、僕はずっと何かが起こりそうな気がして、なんだかむずがゆい感じがしていた。確かに何かが起こりそうだった。僕は授業をして、帰宅し、ベッドに入り、これから起こるはずの何かを待ちつづけ、そして金曜日に死んだ。

これが、この作品の出だしの部分。これだけでもうググッと掴まれます。最初の一文から、「これが君の名前ならだけど」っていうギミック。そして、「金曜日に死んだ」で、これが死者からの手紙だとわかる。
死んだ男は、どこかの島にある人気のないホテルにいる。浜辺にはポストがあって、そこに手紙を投函するらしい。でも、この島、どこかおかしいんですよ。握りこぶし大の白っぽく柔らかい塊が空から降ってくる。波は生き物のような音を立て毛皮のような匂いがする。ここは、天国、なのか?
この作品は、男が綴ったいくつもの手紙と島での客観描写で構成されています。男は自分の名前も愛する妻の名前も思い出せません。手紙の中で、彼は、次々に名前を挙げてゆきます。さっき読んだ「謝辞」のように。メイ? エイプリル? アイアンシー? エルスペス? デボラ? フレデリーカ? カーネーション、リリー? リリー? ローズ?
彼は、幼い頃のできごとや妻と過ごした日々に思いをめぐらせます。近所に棲んでいた女の子のこと、のちに妻となる女性と初めてセックスしたときのこと、彼女の飼っていた猫のこと。日々の思い出の中で、名前だけがぽっかり抜け落ちている。主人公と妻は名前で隔てられているのです。
この隔靴掻痒というか、もやもやした感触が、この作品全体を覆っています。名前を失った思い出は、どんなに細部がはっきりしていても、どこか頼りない。足元がぐらぐらするような不確かさ。この曰く言い難いタッチが、読んでいるうちにじわじわと脳内に染み込んでくるようです。

あるいは僕は幽霊なのかもしれない。

そんなことは、最初からわかっていたよという気がしてきます。というか、この作品自体が、まるで幽霊のようです。おぼろげで、とらえどころがなく、そのくせざわざわと感情を波立たせる。手紙は、毎回、こんな風にしめくくられます。

真心を込めて、
君のよく知っているだれかより

思いは残っているのに、名前が失われている。この決定的な遠さに、くらくらします。


「黒犬の背に水」
これもまた、恋人たちの話。ごくごく普通のカップルの会話から始まります。主人公のキャロルは、恋人であるレイチェルの家に招かれることになる。そこで、初めて彼女の両親に会うというわけです。

ポーチには男がひとり座っていた。彼らが家に近づいていくと、男は立ち上がり、二人を迎えに来た。中肉中背で、娘とおなじくピンクがかった茶色の髪だ。レイチェルが言った。「父さん、この人が、キャロル・マートよ。キャロル、この人が私の父さんよ」
ルーク氏には鼻がなかった。彼はキャロルの手を握りしめた。その手は温かく乾いていて、血の通った生身の肉体だ。キャロルはルーク氏の顔をじろじろ見そうになるのをこらえた。
実際のところ、レイチェルの父親には鼻があった。松の木を彫って作った鼻らしい。小鼻はわずかに膨らみ、まるでルーク氏がいい匂いを嗅いでいる最中のように見える。銅の針金が鼻梁を貫いて眼鏡のフレームに結び付けられていて、鼻は二つのレンズのあいだで眠っているネズミのようにお行儀よく身を落ち着けていた。

って、いきなりのことに、びっくり。「聞いてないよー」って言いたくなります。木の鼻って…。なさそうでありそうな、絶妙なラインを突いてきますね。この「ちょっと変」っていうところが、巧い。実際、鼻以外は普通のお父さんなんですよ。

レイチェルは踊るようにポーチに出てきた。「もうすぐ夕食ができるわ」と彼女は言った。「父さんの相手は楽しかった?」
「農場についていろいろと話してもらってたんだ」とキャロルは言った。
レイチェルと彼女の父親は互いに思案ありげな様子で顔を見合わせた。「それは素敵ね」とレイチェルは言った。「父さん、彼が本当はなにを訊きたくてたまらないかわかってるでしょ。鼻のコレクションのことを話してあげて」

え、え、え? 「鼻のコレクション」? 当たり前のように言ってるけど、やっぱり、変です。変だけど、どうにも説明がしづらい「変さ」。当たり前のように言われると、まあそういうこともあるよね、って返さざるをえないような、微妙な匙加減の「変さ」なんですよ。
「どうして教えておいてくれなかったの?」って言うキャロルに、レイチェルははっきりとした答えは言いません。その代わり、こう言います。

食事のために家に入るとき、彼女はそっと耳打ちした。「母さんは片足が木よ」

義足ってことなんですが、「木よ」ってふざけてるのか何なのか…。
と、ここまではまだこの作品のほんのさわり。このあとも、まるで冗談のような「ちょっと変」をちりばめながら、話はどんどんとんでもない方向へ進んでゆきます。どこかズレてるような気がするけど、それがどこだかよくわからないまま、気づくと不気味な領域に足を踏み入れている感じ。
最初の方に、キャロルがレイチェルとの出会いを回想するシーンがありますが、考えてみればその時点から、ちょっとおかしかったんですよね。

彼女がびりびりに破れた本をカウンターに置くと、キャロルはそれを親指と人差し指でつまみ上げた。びしょ濡れの青い背表紙からぼろぼろのページがぶら下がっている。タイトル部分、背、カバーは食いちぎられている。「本の弁償をしなくちゃならなくって」
「どうしたわけ? 犬が食べでもしたの?」と彼は冗談を言った。
「そうよ」と彼女は答え、ほほえんだ。

冗談だと思ってると、ホントのことだったりするわけで。


ということで、今日はここ(P84)まで。
まだ2編読んだだけですが、どちらも、理に落ちない不思議なタッチの話ですね。こういうの好きかも。