『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【12】


読み終えました。ふぅ。何でしょう、この読後感は。長い道のりでしたが、読み終えた感触は以外に軽やか。軽やかな悲しさ、透明な切なさ、みたいなものが残ります。


さて、これまで、いくつかの要素が提示されてきました。
人工知能のヘレンは意識を持っているのか? 文学を解釈できるようになるのか? 次に、「僕」とCの愛の行方はどうなってしまったのか? そして、「僕」は小説を再び書き始めることができるのか?
これらはすべて、「記憶とは?」「読むこととは?」、そして「物語ることとは?」というテーマにつながっていきます。それらをめぐる思考を、小説の形で綴ったのがこの作品だと言ってもいい。結論が書かれてるんじゃありませんよ。処女作の『舞踏会へ向かう三人の農夫』もそうでしたが、思考することがそのまんま小説になっている。
あるとき、ヘレンはCについて訪ねます。

「リチャード?」誰も僕をリチャードとは呼ばない。ヘレンだけだ。「なぜ彼女は去ったの?」
「本人に訊いてくれ」
「本人には訊けないわ。あなたに訊いてるの」
(中略)
「僕たちはお互いの世界になろうとしたんだ。しかしそれはむりなんだよ。それは――廃れた理論なのさ。世界は大きすぎる。貧しすぎるし。痛々しすぎる」
「お互いに守れなかったの?」
「誰も他人を守ることはできない。彼女は成長した。二人とも成長した。記憶だけでは充分じゃなかったんだ」
「何だったら充分なの?」
「充分なものなんかなにもない」思考を組み立てるのには永遠の時間がかかった。スケーリング問題だ。「なにもない。愛が取って代わるものはそれさ。これまで経験してきたことでもう充分であってほしいという希望の埋め合わせをするのもそれなんだ」
「本みたいに?」彼女は示唆した。「いつかはきっと終わるから、つねにそうであるように見えるもの?」

この小説のもうひとつのテーマが、「愛」であることは間違いないでしょう。手持ちの記憶だけじゃ充分じゃないから、ときに愛して、ときに別れる。そして、ときに物語り、ときに物語を読む。つかの間の充足、つかの間の永遠。「本みたいに?」ってのは、ドキリとさせられます。「いつかはきっと終わるから」というのに、さらにドキリとさせられます。もうすぐ、この小説も終わるんだなあというタイミングで、このセリフが出てくる。
この会話は、ひりひりするような切なさがあります。物語は、いつの間にか「僕」とヘレンのラブストーリーの様相を呈してくる。この会話だけじゃありません。トレーニングの会話の一つひとつが、何だかとても切ない。いつかはきっと終わるから。このあたりからは、ページをめくるのがやめられなくなります。終わりに近づいているのが辛いんだけど、やめられない。
ところで、ヘレンは、ページをめくることがありません。どのように読みどのように感じるのかは、ブラックボックスの中。でも、感情らしきものが生まれているように見えます。その証拠に、人類の邪悪な側面を表すニュース記事を大量に読んだあと、彼女は絶望してしまう。「もう遊びたくない」と言って、沈黙してしまいます。
ヘレンが文学を解釈できるかどうかは、英文科の修士試験を模したチューリングテストによって行われます。一方は人間が、一方はヘレンが答え、回答者を伏せたまま審査官に見せ、どちらがどちらか区別ができなければ、ヘレンの勝利というわけです。
そして、いよいよ、その試験の日がやってきます。これが最後のクライマックス。もちろん、ここにその結果は書きませんが、ヘレンの回答には、胸がいっぱいになります。
最後は、レンツと「僕」の会話で締めくくられます。

「歳はいくつだ?」
「三十六です」
「なるほど。暗がりゆく森の年齢だな。こう考えてみろ。これまでの人生の惨状を解明するのに、まだ残りの人生が半分あるってな」
「そのあいだに積み重なる惨状は?」
「一日の考えは、その日一日だけで充分である」

すっかり忘れてましたが、この小説を読み始めたのは、「三十六歳」が気になったからでした。「僕は三十五歳と別れてしまった」。いい歳だってのに、わからないことだらけの36歳。身につまされます。僕も、「僕」同様、わからないことだらけだよ。ホントに。過去をふり返りつつ思い悩み、先を見つめては不安にかられる。まだ足りない。もっと欲しい。そうやって、外へと手を伸ばす。人は何かにつかまらなければならない。愛とか、物語とか。


『ガラテイア2.2』、読了です。