『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【11】


これまで2/3くらいまで読み終えましたが、もう、ストーリーをちまちま要約するのはやめてもいいでしょう。びゅんびゅん、とばしていきます。


ヘレンはどんどん成長していきます。彼女の発する言葉ひとつひとつが、驚きです。「わたしはどこから生まれたの?」「わたしはどんな人種?」「歌って」などなど。って、今、何気なく「彼女の」なんて書いちゃいましたが、そう言いたくなるくらい、人格を感じさせる機械になりつつあるということです。そして成長するにつれて、もはや少女というより、若い女性のように思えてくる。
しかし、そうであっても、彼女の知らないことは無限にあります。

抜け落ちているもののカタログはげんなりするほど大きく浮かび上がり、理解を超えるほど膨大だ。ごく簡単な名詞でも彼女はつまずいてしまう。特性はどれもこれも彼女の途方もない乱視の中できらきら光っていたに違いない。動作に関して言えば、ヘレンが動詞をどう理解しているかなんて、いったい誰にわかるだろうか?
生命とは何か? それは夜の蛍の輝きだとヘレンに教えた。冬のバッファローの息吹。草むらを駆けめぐり、日没になると姿を消す影。

脳と目と耳しか与えられていないヘレンは、動作というものの本質が理解できるんでしょうか? そのことを思うと、何だか切なくなってきます。機械が、生命の本質を理解できるんでしょうか? 僕の教える生命を、彼女はどのように聞いているのでしょう?
さらに、ヘレンは600冊の本をCD-ROMで与えられます。彼女は一人で、いつでもそれをスキャンして、ひたすらに読むことができます。どこまでもどこまでも、際限のない学習。

俗界は広大で、海溝よりも深い。それは結局のところ、カタログの形でしか現れない。
僕たちはヘレンに駐車違反のチケットや半額セールも教えた。音叉や熊手や二枚舌や選ばなかった道も。抵抗器に蓄電器、セールスマンの戦略、交流電気、別のライフスタイル、VLSIに社会を教えない教育のことも。
ウールもリネンもダマスクも教えた。フィンチにフィーダー、コウモリにバンヤン、ソナーに手旗信号に生き物が残した通り跡も。ダニと埃、虫瘤と殺虫剤、一生の一瞬の交尾も。
証券取引委員会も教えた。大恐慌時代のガラス製品を専門にするコレクターのことも教えた。三段跳びと二人乗りリュージュも。昔は大人が子供に大きな手と小さな手といって教えてたことも。排便に発汗に血液循環も。ポストイットのメモも。登録商標に徴兵忌避も。オスカーにグラミーにエミーも。心臓病で死ぬことも。折ったばかりのハンノキの杖で占うことも。
ピアノの鍵盤がどう並んでいるかも教えた。レターヘッドも。社交界でビューの舞踏会も。ラジオのトーク番組にテレビのドキュメンタリードラマも。風邪に流感、その治療法の五世紀にわたる短い概説も。万里の長城にテンメン公路に鉄のカーテンにトンネルのむこう側の光も。宇宙から見ると地球はどう見えるかも。この三十年間もペンシルヴァニアの町の地下で燃えつづけていた火事も。

次々と挙げられていく概念のカタログ。以下、延々このリストが続きます。世界は何てたくさんの概念に満たされているんでしょう。まったくもう、きりがない。世界に、「これで終わり」はないんですよ。くらくらしてきます。しかし、くらくらするのは僕が人間だからで、機械はそんなことを感じないでしょう。与えられたものが世界のすべて。それをくり返し脳内でリピートするだけです。
そして、ついにヘレンは、「愛」について問いかけます。自分だってわかっちゃあいないのに、「僕」に愛を教えることができるんでしょうか。詳しくは書きませんが、このシーンは、胸が詰まります。これは後半のクライマックスですね。愛をどうやって教えるのか、そしてそこから何が見えてくるのか、ヘレンはどんな反応をするのか…。


ということで、今日はここ(P320)まで。この「愛」をめぐるシーンの最後は、こんな風に締めくくられます。

その後でヘレンは急速に成長した。

気になる。すごい気になる。
そろそろラストスパートです。