『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【10】


「僕」が物理学の道を捨て、文学を志すことになったのは、恩師テイラーとの出会いがきっかけでした。テイラーは、知的で洞察力にすれた文学の教授です。「僕」は彼を、「ユーモアと謙虚さを持ち合わせていなければ、大の人間嫌いになっていたかもしれない」と評しています。
「僕」は、Uで三度暮らしています。学生時代、Cとの同棲時代、そして現在。この過去の二つの時代の回想でテイラーについて語られますが、現在のUに彼はいないようです。
「僕」はあるとき、英文科棟にあるかつてのテイラーの研究室を訪れようとします。そして、その途中で立ち止まってしまう。

いったいどういうつもりだったのかわからない。教師が教えているところをもう一度幻で見ようとしていたのか。彼が暗唱させた詩に、なぜ世界が答えなかったか、その理由をたずねてみたかったのか。僕はその場面を改訂したかった――初恋を、発見を、天職を、十八歳を。バックアップ作成。アップデート。形を修正し、過去の自分からこしらえた物語を改良しようと。

この小説は、どうも、「記憶」と「物語ること」をめぐる小説のようです。この小説が、「自伝風」に描かれているのは、そのあたりに理由があるんでしょう。過去を改訂して、新たな物語を紡ぎ上げようとする行為。でも、何のために?
さて、人工知能のヘレンですが、ちょっとドキリとする成長ぶりを見せます。成長って言葉が合ってるのかどうかはわかりませんが、あることを学習する。それが何かは、ここには書きませんが、それを見たレンツの反応はこんな感じです。

「よくもやってくれたな、パワーズ!」そのわざとらしい憤慨を以前どこで聞いたか憶えている。おやじが、亡くなる前の夏、僕の姉を叱りながら笑っていた。「よくもやってくれたもんだ。わしをお爺ちゃんにしおって」

ヘレンは、「僕」から様々なものを吸収していきます。幼い少女が親のマネをして、学習していくように。バラバラに詰め込まれた信号をその都度形を修正し、「バックアップ作成」。ヘレンもいつか「物語る」日が来るんでしょうか?

南へ向かう列車を思い描いて欲しい。負傷兵を乗せた列車が山道を越えてたどりつく、すてきな架空の国の名前は――偶然にも、現実にある国とそっくりで――イタリアという。
(中略)
この国はどこまでも続く野外カフェだ。描写の他のすべてがかび臭いフレスコ画のように消えたとしても、このイメージだけは心の中で上映される紀行映画で生き続ける。この国の、このカフェでは、夜明けから日没まで陽当たりの中に坐っていられる。広小路(ピアッツァ)に面して。何々小路。あなたのためだけの日陰は想像もできない空色に染められたままだ。そしてどこまでも続くテーブルには冷えた飲み物。
このテラスには好きなだけ坐っていられる。このテラスは人生の到着口だ。あなたはそこを思い描きさえすればいい。

「僕」は、少しずつですが小説を書き進めている。負傷兵たちを乗せたこの列車は、安らぎに満ちた国へと向かうことになったようです。「どこまでも続く野外カフェ」ってのは、いいですね。傷ついた者たちの逃れの場所。「僕」の周りの現実は、ときに苦しく辛い。世界は残酷で、気まぐれで、無意味に思えます。だからこそ、「僕」は「物語ること」で、苦しさを鎮めようとしているのかもしれません。
回想シーンで、オランダに移り住んだ「僕」ですが、そこで暮らすうちにまたしてもCとの関係はギクシャクしていきます。そんなとき、二人はイタリアへ旅行する。この旅は、幸福なシーンとして描かれています。陽光の降り注ぐ国、イタリア。「南へ向かう列車」は、このような記憶から紡ぎ出される物語じゃないかと思えてきます。


ということで、今日はここ(P273)まで。現在進行形の大学の話と、Cとの日々の回想シーン、「僕」の書こうとしている小説について、という3つのパートがゆるやかに関係し合ってきてます。このあとは、ダダっと読んじゃうつもり。