『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【8】


この小説では、固有名詞を記号化した書き方がされているので、慣れるまではちょっとややこしい。「僕」の元カノジョの名前は「C」としか表記されません。そして、「僕」とCが暮らした街も、「U」「B」「E」とアルファベットで表記されます。さらに、人工知能はバージョンアップをくり返すたびに、「A号機」「B号機」と呼ばれます。これは、何らかの文学的意味があるんでしょうが、現段階ではまだわかりません。「思い出」とか「記憶」に絡んでいそうな気もしますが、まあそれはおいおい考えましょう。


ということで、続きです。今回は、回想シーンから。
Bでの暮らしに耐えられなくなったCの望みにより、「僕」とCは学生時代を過ごしたUへと戻ってきます。「僕」は、処女作のおかげでそこそこの知名度を手にしますが、二人の関係はますますギクシャクしていく。

僕たちは重い足取りでようやく春を迎えた。自分の不幸が僕を沈み込ませているという思いが、Cを実際そう考えている以上に不幸にさせた。さらに悪いことに、その思いが予言を的中させた。彼女がおびえているということだけで、僕は沈み込むようになりだしたのだ。あるいは、彼女のおびえではなく、僕の心の中にしっかりと下ろされた、救いようのない愛という錨のせいで。
もう帰属意識のないUで二年間も暮らすと、僕たちは恐怖で結ばれたパートナーになった。今でも持っている、当時の彼女が写った写真一枚にもそれが読みとれる。レンズの前で、笑顔と間違えられそうな、動揺で顔をくしゃくしゃにしたあの表情を見ると、僕は思わず叫び声をあげて苦しんでいる彼女のもとに駆け寄りたい気持ちに永遠になるだろう。そしてその苦しみが、実は彼女を慰めたいという僕の気持ちに原因があると告げられたとき、事態はいっそうひどくなった。

負のスパイラルに陥っちゃってる。こうやって書き写しているだけでも、いたたまれない気持ちになってきます。「どうにかしてあげたい」という気持ちが、相手を苦しめてしまうわけです。でも、こうなっちゃったら、もう別れるしかないのかな。うーん、何が問題だったんだろう? それを、「僕」は未だに考え続けているように思えます。写真は常に現在に向けて語りかけてくる。そして、現在の「僕」を捉え続けます。
さて、「僕」とレンツの実験、現在の物語のほうに戻りましょう。
「僕」は、レンツの研究室で扉の裏側に貼られている手製のカレンダーを発見します。子供が作ったようなそのカレンダーは1月のまんまめくられることがなく、そこには、若かりし頃のレンツと彼の妻と思しき女性が浜辺で寄り添っている写真があります。そして「僕」は、この写真に「痛ましさ」のようなものを感じ取ってしまう。

この抱擁はもう終わりの愛に屈していた。二人は、まるで相手が軽い発作を起こしたところみたいに、お互いを支え合っている。お互いにしがみついている姿は、氷のような夜風の中で地上四十階のへりに立ち。足が曲がりはじめてもまだ思いとどまっているカップルのようだ。

妻の話も子供の話もしないレンツの研究室にこっそり掛けられた写真。このカップルに何があったのかは、わかりません。でも、現在のレンツからずいぶんとかけ離れたその様子は、時間の中で失われてしまった何かを感じさせます。そしてこの写真は、その何かが失われつつあることに抗い、必死でお互いにつかまろうとしているかのように見えてくる。

誰かが誰かを裏切ったのだ。誰かが運命に悪戯をしたのだ。凍える浜辺でインスタントカメラを持って怯えている子供は、愛がまさしくその冷気に降伏するのを目撃したのだ。やみくもにカットとペーストをした結果、永遠なるものとその必然的な帰結とが分離され、すっかり時代遅れになった、不変の一月をこの男の研究室のドアにかけさせた。この二人は、不可避なるものが起こってはならないはずの、地上最後のカップルだった。運命のお目こぼしによって、おびえた老後に二人一緒でたどりつくはずの。

でも、運命は「お目こぼし」をしてくれなかったんでしょう。レンツの偏屈さの根っこには、そこから生まれた深い孤独があるように思えます。
それにしても、写真、です。処女作で写真をテーマにしたパワーズですが、この小説でも写真がちょくちょく登場する。写真が写し出すのは、常に過去のものごとです。写真の中で起きていることに、僕たちは決して「間に合わない」。複雑な表情を見せるCの元へ駆け寄ることもできなければ、浜辺で佇むカップルに手を差しのべることもできない。この小説をひたひたと浸す「喪失感」は、そんなところにも感じられます。
人工知能の実験は、徐々に進んでいきます。ネットワークと繋がり、受動網膜マトリックスを得て、マシンはヴァージョン・アップをくり返し、ついにF号機までいきます。F号機は、類推するという能力を得る。これは、ものごとを比喩的に捉えることにつながります。そしてさらにG号機へ。

簡単に言えば、G号機は自分のネットの各部と会話することができた。そのネットは仮定がきわめて複雑になり、どんな仮定世界の結果を計測するに際しても、その世界全体を再構築して観念的胎児の状態でそれを動かしてみないではすまなかった。
言い換えれば、G号機は夢を見ることができた。

SFではおなじみの、「夢見る機械」というロマンチックなキメラ。ここいらへんは、やっぱり「何となく」の理解になっちゃいますが、フィクションというものを理解することができる、ってなことでしょうか。文学を理解するマシンの誕生まで、もう少しです。


ということで、今日はここ(P190)まで。ほぼ半分まで来ました。そろそろ折り返し地点でしょうか。この小説で「僕」がレンツにこんなことを言っています。

「読書の知識とは装丁と糊の匂いです。ページを繰るときに寄る、厚い紙の皺のことです。年輪を積んだ象牙のような色の紙です。知識とは時間的なもの。時間をめぐるものです。こういうのはご存知でしょう、工学博士。あなたでも憶えているはずです。『兄さんや姉さんたちが夕食に帰ってくる前に、この三ページだったら読めるわね』」

読書の知識とは、栞紐の位置です。ブックカバーに徐々に現れる擦れや汚れです。そうしたものを、「DOUBLe HoUR」ではやりたいと思ってるんですが。