『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【7】


さて、人工知能マシンはどうなったんでしょうか? ということで、続きです。
A号機のメモリーを減らしたB号機は、「計算言語学」とも言うべき能力を得ます。つまり、論理的な構文に強い。しかし、それを外れるともうダメです。何も答えられなくなる。「セント・アイヴスへ行く数は?」に答えられたのは、飾りたてられた詩の部分を無視し、単純な計算問題に還元してしまったからでしょう。なぞなぞ歌に正解できても、なぞなぞを楽しむことはできないのです。

Bには一歩退いて意味のやりとりを眺めるメタ能力がない。ディスコースの平面からほんの少し飛び上がってそれを空中から眺めることすらできない。しゃべるくせに、ある意味では、Bは発話というものがつかめていない。

なるほど、「メタ能力」ね。B号機について、「知識についての知識は永久にゼロなのだ」と「僕」は言います。考えてみれば、人間の脳の最大の特徴は、このメタ能力かもしれません。脳のことを脳で考える。ということを脳で考える。ということを脳で…(以下同)。さらに言えば、この作品自体が、「小説を書くとはどういうことなのか」「小説を読むとはどういうことなのか」ということを、問いかけてくるような小説になっています。物語についての物語、についての物語、についての(以下同)。
そして、マシンに自ら自己検査と再編成を行う機能を与えることができるのかとか、見ることも触ることもできないマシンに言葉だけ世界を捉えさせることができるのか、といった議論を経て、マシンは徐々にバージョンアップしてゆきます。
さて、このあと、二人の女性が登場します。一人は、研究所のメイン・ホールで見かけた、どこかCを思わせる若い女性。もう一人は、賭けの相手の一人、脳学者のダイアナです。彼女は、「僕」に好感を持っているようです。
「僕」は、彼女の家に招待されます。そこで「僕」は初めて、彼女に二人の子供がいることを知る。しかも、そのうち一人はダウン症で、夫は1年ほど前に出て行ったきりらしい。ダイアナは以前、人工知能について、赤ん坊に言葉を教えるようにはいかない、と主張していました。発話が困難なダウン症の子供を抱えた彼女は、喋り思考することの難しさ、そうした相手とコミュニケーションをとることの難しさを、人一倍知っていたんじゃないかという気がします。そしてその困難を支えているのは、彼女の場合、「家庭」におけるささやかな幸福じゃないかと思われます。このシーンは、ちょっといいですね。

ダイアナは僕の向かい側に坐っている。ゆったりとしたソファは、せっせと物をこわす子供たちのせいで傷だらけだ。二階で、その子供たちは夢を見ながら寝返りを打っている。今日という日のわけのわからなさを平たくするのが、夢の唯一の任務だ。こんな家庭は、僕にはけっして持てないだろう。本で人格が形成された僕は、そうだともうわかっている。心で読んだ本が現実になるようにしてきたのだから。
あちらこちらで円筒状の管人間か合体ロボットが、夜に備えてフラシ天のカーペットでレゴのベースキャンプを張っている。ダイアナは音楽のメリスマをショールみたいに肩に巻きつけた。ああ、愛しい人がこの腕の中にいてくれたら、もう一度あのベッドに戻れたら。

35歳の独身男が無性に孤独を感じる瞬間。ダイアナの家庭こそ、まさにミニチュアのベースキャンプです。「僕」の手の届かないところにある、小さな宇宙。
そうして、「僕」はまた書きかけの小説へと帰っていきます。「南に向かう列車を思い描いてほしい」。

残酷で、陰鬱で、張りつめて、危なっかしい。わざわざ考える値打ちのある書き出しの一節はこれしかない。想像力の線路に沿って、せきたてられるように伸びながら、小説は南へと向かう。そして電信車から信号を送る。どんなことがあっても僕がかじりつかねばならないメッセージを打電してくれ。子供時代の出発駅からけっして送られることのなかったメッセージを。


ということで、今日はここ(P168)まで。人工知能も「僕」の新作も遅々として進みません。まあ、僕もゆっくり読んでいるので、お互い様か。