『ガラテイア2.2』リチャード・パワーズ【6】


『舞踏会へ向かう三人の農夫』は、章立てが重要な構成要素となっている作品でしたが、この『ガラテイア2.2』は、章で分かれてはいません。いくつかの断章が三行空きの空白を挟んで、ずっと続いていくという形式になっています。そのせいか、ずるずるべったりと話は展開していき、がらっと場面が変わるということがない。主人公の「僕」は、レンツの研究室と自分の部屋を行き来するばかり。そして、回想の中でのみUを飛び出し、Cと共にBに移り住みます。


ということで、今回はBでの暮らしを回想するところから始めます。

あの本の構想が浮かんだのは、僕たちがBで暮らした最初の年、僕の人生で最も豊かな年だった。僕たちは幸せだと僕は思っていたが、本当のところはわからない。

そうして、以下、Bでの幸せな日々が描かれます。

僕たちは二人きりだった。どちらも人生で初めて、どこにも行かなかった。冬が十月に始まり荒れ狂って五月まで続く州で、僕たちは冬の夜から冬の夜へと漂った。上品から荒廃へとやむをえない行進の途上にあるアパートで、僕たちは言葉にならないほど親密な家庭を営んだ。

僕たちはお互いの物語に耳を傾けた。即興の話もこしらえた。レパートリーは記憶装置の奥深くから取り出したものだった。声を出して読んで聞かせなかった本は大胆に要約した。そして僕たちは、それまできちんと読む時間がなかった本を手当たり次第に読み、また読み直した。

Cと僕は早々と懐かしむみたいにそこで暮らした。僕たちは冬の舳先に沿って長い散歩をしながら、偵察して、すべてを心に留めた。黄土色と焦げ茶色を吸い込んだ。そうした色彩は、現在というものが見かけよりもはるかに不思議だという事実をこっそり教えてくれた。

年代物の街並みが残された町で、読書をし、散歩をする二人。本を読むように街を歩き、街を歩くように本を読む。道の途中、ページの途中、中途であることが、そのままささやかだけど豊かな幸福感につながっている。でも、これを読む僕は、この幸福が消え去ってしまうことを既に知っています。幸せな様子が描かれれば描かれるほど、「本当のところはわからない」という苦さが浮かび上がってくる。

僕たちのBでの生活が終わりを告げたのは、本当のところ、リンブルグからあの最初の電話がかかってきたときだった。土曜の明け方で僕はベッドに寝そべって、僕のCが別の言語をしゃべっている声にうっとりしていた。僕が一緒に住んだ人間の肉体には、別の女性が宿っていた。これまでCは僕に合わせて、僕が愛せそうな人間に自分を作り変えていたのだ。この別の女性が誰なのか、僕にはさっぱりつかめなかった。

Cが、オランダに住み始めた両親と電話で話しているシーンです。ここにあるのは、例の「本当のことはわからない」という想いです。彼女のことをわかってるつもりでいたけど、実は何にもわかってなかったんじゃないか、と。
「僕」は、ホームシックにかかったCを慰めるために、小説を書き始めます。それは、オランダ語を話す自分が知らない彼女を、物語の中に呼び込もうということかもしれません。
きっかけは、Cと共に展覧会で見たアウグスト・ザンダーの写真。そこから始まり、「僕」は、物語の中に様々なものを詰め込んでいきます。Cが聞かせてくれた、彼女の両親の生地オランダの歴史。Cが喜びそうなジョーク。二人で読んだ数々の本の断片。そして、二人のそれぞれの職場での出来事などなど。
毎晩、夜になるとそれを彼女に朗読して聞かせます。

僕は初心者がやる間違いを犯した。処女作を書く小説家なら誰でもついやってしまうたぐいの間違いだ。心の奥底では、本を書くなんていう機会はもう二度とないことがわかっていた。そんな贅沢をもう一度Cにたのむなんてできやしない。これは一発勝負で、彼女の僕に対する信頼を回復するために、朗読には僕が知っていることを全部詰め込んだ。彼女が教えてくれたことを全部。彼女の仮の家は、この大西洋の世紀と同じくらいに広くて、越えられないものにする必要があった。僕たちにはこのたった一度の舞踏会しかないとすれば、踊る曲は力のかぎりのトゥッティしかなかった。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』というパワーズの処女作は、20世紀をまるごと描いたような作品なんですが、それがこんな個人的な動機から描かれているとうことに、感動させられます。しかも、その中に、あらゆるCとの日々が全力で写し取られている。
しかし、それは「間違い」だったんですよ。Cとの関係は、徐々にギクシャクしていく。彼女は、「僕」が朗読する物語を指して、「それを聞いていると、わたしがつまらない人間みたいに思えるのよ」と言います。
え、何がいけなかったの? 原因はやはり、その小説でしょうか。自分のすべてが、「僕」のフィクションの中に属しちゃうってことに、耐えられなくなっちゃったとか。自分は、その本の中に収まっちゃうような、そんな存在なの? だったら、その本があれば自分なんていらないんじゃないの? そんな感じかな。いや、そんなことはここには書かれてませんよ。僕の想像。でも、僕がCの気持ちをちゃんと読み取れているかどうか、イマイチ自信がないです。本当のところはよくわからない。そして、主人公の「僕」にもそれはわかってないように思えます。

あの本は、僕がこれまでにCや海外から聞いたあらゆる報告を、パスティーシュとして構成したものにすぎない。すべては彼女を喜ばせ気を紛らわせるためのつぎはぎ細工だ。それが偶然に彼女をまる呑みすることになるとは。

彼女が喜ぶだろうと思ってやったことが、どんどん彼女を追いつめていくかのようです。でも、そういうときは、どうしたらいいんでしょうか? このあたりは、とても悲痛なものを感じます。


ということで、今日はここ(P133)まで。いや、正直、僕にもよくわかんないですよ。これを読んでいる僕は、二人がいずれ別れてしまうことをもう知っています。でも、じゃあ「僕」はどうすればよかったのか、Cに何をしてあげればよかったのか、やっぱりよくわからない。うーん、どうすれば…。