『どんがらがん』アヴラム・デイヴィッドスン【4】


忙しくて、また間が空いてしまいましたが、再開します。
今回は、4編。ざざっといきますよ。


「グーバーども」
親を亡くし、意地の悪い祖父に育てられた少年のお話。とは言うものの可哀想なお話にならないのは、柄の悪い少年のイキのいい一人称で語られているせい。俺だってやられっぱなしじゃないんだぜ、というようなたくましさが伝わってきます。
文中で少年が「クソじじい」と呼ぶ祖父は、少年に盗みを命じ、嫌がろうものなら脅し文句を並べ立てるというろくでなし。その脅しに登場するのが、タイトルになっている「グーバーども」です。

「よし、こうしよう。おまえを売り飛ばしてやるぞ、ぼうず――おまえをグーバーどもに売り飛ばしてやる!」
さて、いわれたこっちはさっぱりわからない。いったいそのグーバーどもって、隣の地区に住んでるのか、それともどこか外国の化け物の名前なのか。とにかくわかってるのは、どうせたちのよくないやつらだろうってこと。いいやつらだったら、おじいがその名を口にするもんか。

さて、グーバーどもって何者でしょう? 最後に明らかにされるその正体は、確かに不気味ではあるけど、「怖い」というより、子供じみたバカバカしさがあります。
ひょっとしてこのお話はすべて主人公の少年の妄想なのかも、という気さえしてきます。少年が祖父を乗り越え大人になるため、自ら生み出した妄想。一人称で語られているので、そういう読みも可能なはず。


「パシャルーニー大尉」
これは、しみじみとしたいい話。まず、学校にキャデラックが到着し、身なりのいい男が現れます。「何者だ?」と思っていると、校長室に向かったその男は、「トンプソン少佐」と名乗る。どうやら、この学校に通う男の子の父親らしい。ん、トンプソン少佐? パシャルーニー大尉じゃないの?
サシェヴラル」や「グーバーども」同様、またしても、名前が問題になります。というのも、タイトルにある「パシャルーニー大尉」という名前が、なっかなか登場しないんですよ。読んでいるとこの名前が気になってしょうがない。どこか騙されているような気がしてならないわけです。


「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」
これは、すごくいい。わずか9ページの作品だけど、タイトルも含めお見事。もし本屋で立ち読みするなら、この1編でしょう。
いわゆる「奇妙なお店」もの。稀覯本を扱う本屋の話なんですが、この手の話はたいていの場合、不思議な商品が登場することになっています。この作品でも、確かに奇妙な本が登場する。でも、話はそこに着地しないところが、ニクいです。
とてもよくできたお話なんだけど、読んでいる最中は、そうした作者の企みはまったく頭に浮かびません。デイヴィッドスンは、設計図を見せないように書くのが巧いですね。ラストもすべて説明するんじゃなくて、ほのめかすだけなんですが、パズルのピースがぴたっとはまるような快感があります。
あんまり説明しちゃいけない種類の作品なので、これ以上は書きませんが、傑作だと思います。オススメ。


ナポリ
これまた、わけがわからない話。「若くもなければ年老いてもおらず、見にくくもなければ美男でもなく、明らかに金持ちには見えないが貧しくも見えないひとりの男」が、ナポリを訪れる。彼が何を考えているかは、一切描かれません。ただ、あやつり人形のようにナポリの街をさまようだけ。何なんでしょう、このとらえどころのなさは。実は、作品の主人公はこの男ではなくて、「ナポリ」そのものだと思われます。

この半島でとれる硬質小麦は、穂のついたままで貯蔵すると黴(かび)が生えたり、さび病が出たり、腐ったりするが、いったん粉に挽(ひ)いてから、水をまぜてペースト状に練り上げ、圧力を加えて細長い紐(ひも)の形にひっぱりだしたものを干しておけば、人びとが空腹をしのげるかぎりにおいて、半永久的に保存できる、ということだ。それを茹(ゆ)でれば、パンに劣らぬ栄養価があって、しかもはるかに長持ちする食品になるし、オリーブ油やトマトや肉やチーズ、それにたとえば月桂樹やバジルの葉を入れると、なかなかおいしい料理ができあがる。

って、これパスタのことなんだけど、わざとわかりにくく書いていますね。この回りくどく模糊とした描写のせいで、ナポリの街が迷宮に思えてきます。そして、貧しい路地に入り込んでいくにつれ、じわじわと得も言われぬ異様な雰囲気が漂ってくる。とらえどころのない不穏さ、不吉さ、不気味さ。

頭上でぽたぽた雫(しずく)を垂らしている生乾きの洗濯物の列には、もはや人間の衣服の面影がほとんどなかった。物干し網からぶらさがり、ゆるやかで生暖かくて悪臭のする突風にときおり揺さぶられているのは、もしかすると昔は衣服だったのかもしれない。鋏(はさみ)と針と糸を使ってどこまでも根気よく、どこまでも丹念に繕(つくろ)いをすれば、衣服の面影がふたたびよみがえるかもしれない。だが、現状では、このぼろ切れにそんな名前をつけるのはおこがましいかぎりだ。それとも、こう考えるべきだろうか。これらの壁の背後、かさぶただらけの壁、剥(は)がれかけた壁、割れた壁、不潔でじめじめして膿汁(うみじる)を垂らした壁の背後には、人間とは異なる仕立ての衣服を必要とする手足を持った、小鬼の一族が住んでいるのだ、と。

うーん、いやーな感じです。「生乾きの洗濯物」に「膿汁を垂らした壁」。男は、こんなところに何をしにやってきたのか? ラストは、わかったようなわからないような結末を迎えますが、キーは最後に声だけ登場する人物ですね。その姿を想像すると、いやーな余韻が残ります。


ということで、今日はここ(P222)まで。洒落た「そして赤い薔薇を〜」から、得体の知れない「ナポリ」へという流れは、ちょっとクラクラきます。どちらも短い話ですが、この並びは素晴らしい。この短編集のハイライトかもしれません。