『酒国』莫言 【7】


「第五章」に行く前に、前章の「丁パート」、最後の部分を振り返っておきます。
トラックのラジエーターを冷やすため水を汲みに行ったっきりなかなか戻ってこなかった丁鈎児(ティン・コウアル)を、女性運転手が罵るシーン。かなり気の強い女性のようで、言葉遣いも乱暴です。

「こん畜生め! 水を汲みに行くって黄河まで行ったのかい、長江まで行ったのかい」
タンクを置くと、彼は痺れてだるくなった腕を振りながら答えた。
「ヤルツァンポ川〔チベットの大河〕から汲んできたんだぜ、こん畜生め!」
「畜生め! 川に落っこちて死んじまったかと思ったじゃないか」
「溺れるどころかビデオまで観てきちまったよ、畜生め!」
「こん畜生め! カンフーかいポルノかい?」
「カンフーでもなきゃポルノでもないんだ、畜生め! 鶏頭米っていう絶世の珍品だ」
「何が絶世の鶏頭米だ、こん畜生め! 口を開けりゃあ畜生めなんだから、こん畜生め!」
「こん畜生めの口を塞いでやろうかこん畜生」
丁鈎児は女性運転手を引き寄せると、両腕で彼女の腰を固く抱き、辛酸甘苦の唇で彼女の口をきつく覆った。

コントみたいな会話じゃないか、こん畜生め。ということで、丁鈎児が女性運転手に強引にキスをするシーンから、第五章は始まります。何やってるんでしょうね、彼は。食の次は色。捜査はどうした?
一方、この女性運転手もよくわからない。キスを徹底的に拒んだかと思うと、丁鈎児を家に連れ込んでベッドへ誘います。謎めいた女。ハードボイルドです。
実は、ハードボイルドの定石通りこれは罠です。結局のところ、丁鈎児は彼女にサディスティックに犯され、その様子を黒幕である金剛鑽(チン・カンツアン)に撮影されてしまうことになる。彼女は、金剛鑽の愛人だったというわけです。
丁鈎児はハードボイルドの主人公のように、平静を装おうとしますが、精一杯虚勢を張っているようにしか見えません。端から見れば滑稽なだけ。どうにも締まりません。
それに比べると、金剛鑽は余裕の態度。明らかに器が違います。「お前さんの調査の勝利を祈って乾杯!」とグラスを干す。そして、さらに一抱えの酒瓶を持ち出してきて、「勝負をしようじゃないですか」と持ちかけます。

「飲めない奴はクソったれだ」頬をひきつらせ優雅な仮面をかなぐり捨てた彼はアル中のようだった。「飲むか飲まんか?」彼は挑発的にたずねると、頬をひきつらせて仰向いて飲み干した。「クソったれ呼ばわれされても飲まん奴はいるもんさ」
「誰が飲まないって言ったかね」丁鈎児はグラスを挙げると、ゴクゴクと飲み干した。

あーあ、飲んじゃった…。カッコつければつけるほどマヌケに見えるのに、本人がそのことに気づいてないというのが致命的です。だから、こんな単純な挑発に乗っちゃうんですよ。もちろん、またしても酔っ払ってぶっ倒れてしまう。丁鈎児、まったく学習してませんね。


では、「李パート」にいきます。
李くんの手紙から、前回の小説「ロバ街」に登場した余一尺(ユイ・イーチー)という小人が、実在の人物であることがわかります。李くんが、余一尺に莫言のことを話したら、「莫言だけがわしの伝記を書く資格がある」と言ったとか。
それを受けて、「莫パート」では、莫言先生が伝記執筆を快諾します。だんだん、4つのパートが入り組んできましたね。
一方、李くんの小説に対しては、莫言先生、厳しい評を下すようになってきました。今回送りつけられてきた「一尺の英雄」という小説に対して、「あなたは小説と称していますが、私にはごった煮、一尺酒楼のロバ雑炊のように思えるのです」、とかなり辛辣なことを書いています。


ということで、「小説パート」、「一尺の英雄」を読んでみましょう。
余一尺が、皮張りの椅子にしゃがみ込み、「腹を割って話し合おうじゃないか」と語りかけるところから、この小説は始まります。今回の小説は、李くんと余一尺との対話が主な要素のようです。しかし、この怪人物、何だか妙なことになっている。

胸を叩いての話が終ると、手足に力を入れたので、皮張りの超高級椅子は風車のように旋回を始めます。彼の顔が見えたかと思うや瞬く間に後頭部が現れた。顔、後頭部、顔、後頭部、顔には狡猾さが溢れ、ふくべのような丸い後頭部には智恵がぎっしりと詰まっています。グルグル回るうちに彼は高く上昇していきました。

回転椅子に乗ったまま上昇していくって…。わけがわかりません。さらに、この小人、眼からはビームを放ち、ヤモリのように天井に貼り付き、くわえた煙草を飛ばして宙に浮かせます。化け物か? もはや実在の人物とは思えません。フィクションにしても、バカバカしすぎます。李くん、とち狂ったんでしょうか?
そしてこの章の最後は、余一尺のこんなセリフで締め括られます。

わしの伝記は世界最大の奇書となろう。早いところ莫言の小僧に書くか書かぬか決めさせろってんだ!

莫言を「小僧」呼ばわりする小人…。恐るべし。


ということで、今日はここ(P157)まで。全十章の小説ですが、ようやく折り返し地点まで来ましたよ。