『酒国』莫言 【8】


「第六章」に入ります。例のごとく「丁パート」から。
前章で丁鈎児(ティン・コウアル)を罠にはめた女性運転手ですが、これまで彼女は野性的な魅力をたたえた女性として描写されてきました。だから、彼もコロっと引っかかっちゃったわけですが、この章では彼女が暴走していきます。
女性運転手は目覚めた丁鈎児に、捜査に協力するから一緒に連れていってくれと懇願する。しかし、その直後に、突如暴力的に首を絞めてきたり、「撃ち殺してよ!」と叫び出したり、「あたしは不幸な女ね」と泣き出したりするんです。いちいちヒステリックに、騒ぎ立てる。混乱しているのかもしれませんが、何だかやっかいそうな女性です。
こういう女性を前にしたとき、たいていの男は逃げ出すでしょう。当然、丁鈎児も、彼女を椅子に縛りつけハンカチで猿轡をかませ、彼女の家から逃げ出します。しかし、階段を降りていく途中で老婦人とぶつかりもたもたしているうちに、追いつかれてしまう。

この時、彼と老婦人の頭上から、冷たい笑いが降ってきた。同時にカタンカタンという靴音が響き、女性運転手が身体を真っ直ぐに伸ばし、背中に椅子をくくりつけたまま、ゆっくりと一段ずつ階段を下りてきたのだ。

こわっ。これは、ほとんどホラーじゃないですか! とんだ女に手を出しちゃったもんです。毒婦というか、捕食者。丁鈎児は、逃げることを諦めざるをえない。
捕まった彼は、結局、当初彼女が言っていたように、二人で嬰児丸焼き事件の捜査に当たることになります。そして、二人は酒国のことなら何でも知っているという人物のもとへ向かうことにします。その人物とは…? ジャーン、出ました、一尺酒楼の余一尺(ユイ・イーチー)! 「小説パート」に登場した、あの化け物じみた小人です。


さあ、どんどんスピードアップしていきましょう。
「李パート」を挟んで、「小説パート」にいきます。今回彼が送りつけてきたのは、「調理の講義」という小説です。李くんによれば、「新写実現実主義」に基づいて書かれたとのこと。しかし、李くんがリアリズムを強調するときは要注意です。ありえないような出来事が起きるに決まってる。
この小説には、以前送られてきた「神童」のラストで気が触れてしまった李くんの義母が、再び登場します。今回の彼女は、醸造大学の特別料理センターの講師。生徒たちを前に、調理の講義を行っている。
しかし、それはこの小説の後半部。前半は、李くんとその妻のケンカのシーンです。これ、必要以上に長いんですが、そのあちこちで妻への容赦ない描写がたっぷり繰り広げられます。

妻は色黒で痩せており、髪の毛は艶がなく、顔の肌は荒れ、腐った魚の口臭がある。岳母はグラマーで、肌は白く、緑の黒髪、口からは一日中、肉を焼くような香ばしい匂いを放っていた。

「岳母」ってのは、「義母」のこと。「そこまで言う?」って感じですが、李くんはごにょごにょ言い訳をしながら、端々に妻への嫌悪をにじませます。もちろん、こんな視線に、妻は耐えられません。李くんに対し、「義母と寝たがっているに違いない」と責め立てます。

「(前略)この酒博士様だって正々堂々たる男児、そんな獣にも劣るような恥ずかしい真似をするはずないだろう」
彼女が答えた。
「そう、あなたはしないけど、したくて仕様がないのよ! 一生涯しなくとも、一生涯したいと思い続けるのよ。昼間は平気でも夜になるとしたくなるのよ、醒めてるあいだは平気でも夢の中ではしたがってるのよ。生きてるあいだは平気でも、死んだらしたくなるの!」

これまた、「そこまで言う?」です。冷静さを欠いちゃってムチャクチャなことを言ってる。言ってますが、李くんが義母と「したがってる」のは事実のようです。女の勘をなめちゃあいけません。
ということで、その義母による「調理の講義」です。この料理教室で取り上げられるのは…、案の定「嬰児の丸焼き」! 知りたくないけど、実はみんな知りたがってた特別料理の調理法が紹介されます。
ところで、この調理実習に登場する赤ん坊は、実に愛らしく描かれています。この章だけじゃありません。『酒国』では常に、幼い男の子は可愛らしいものとして扱われている。もう、食べちゃいたいくらい。つまりそれは、おいしそうに描かれているってことです。
この章の、女性の描写と比べるとそれが際立ちます。この章は、「女嫌い」の匂いがするんですよ。女性の醜さや怖さを、思いっきりディフォルメして描いている。李くんの妻に対する描写は、「腐った魚」です。食えたもんじゃない。そして丁鈎児は、女に捕食される側へと滑り落ちていきます。


ということで、今日はここ(P185)まで。特別料理の調理法は引用しないので、ぜひとも実際に読んでみて下さい。