『酒国』莫言 【2】


「第二章」にいきます。またしても、4つのパートに分かれています。


まず、第1節。前章の第1節、丁鈎児(ティン・コウアル)のパート、事件について炭鉱の共産党委員会書記と鉱山所長に問いただそうとした、その続きです。
二人は丁鈎児に対し、食事をしながら話そうと持ちかけます。ここに至るまでに、すでにあちこちで酒を飲まされ酔っ払っている丁鈎児は、丁重に断るのですが、何やかやとこの二人は酒を勧めてくる。なるほど、さすが「酒国」。

「丁同志殿、遠くからおいでだというのに、一口も飲まないというのでは申し訳ない。簡単に済ますつもりで食事も有り合わせのものを準備させましたから、酒ぐらい飲まないと上下の間で親しみがわかないではありませんか。さあ一口だけ、私どもの顔を立ててやって下さいな」
(中略)
「このような、おもてなし……受ける、資格もないです……」
「何がもてなしですか丁同志殿、そんなことをおっしゃられると私どもの顔が潰れます。うちはちっぽけな炭鉱で、規模も小さく条件も悪い、コックの水準も低い。御大(おんたい)は大都会からおいでで、全国各地を博く見聞しておられる、どんな銘酒でも飲んだものはないくらいでございましょう。山猫だろうがなんだろうが山の珍味も食べ尽したことでしょう。こんな料理でお恥ずかしい限りです」

書記と所長は酒を一気に口腔内に空けると、一滴も残らぬグラスを逆さにして見せた。丁鈎児は一滴残れば罰杯三杯の決まりを知っている。彼は半分を飲んだ。優雅な香気が口の中を駆け巡る。両脇の二人はとがめぬ代わりに、自分の空のグラスを彼の前で振っている。お手本には無限の力がある。丁鈎児はグラスの酒を飲み干した。

「もう飲みません。飲み過ぎると仕事に差し支えるので」
「二杯となれば縁起もいい。二杯となれば」
彼はグラスを干すと手で覆った。
「これで勘弁して下さい」
「席に着いたからには三杯、というのが当地の習慣でしてな」

いやだなあ、これ。「親切心から言ってるんですよ」ってな態度でこられると、人は断りづらいもんです。命令じゃないんだけど、搦め手というか、柔らかな笑顔の圧力をかけてくる。その上、空のグラスを目の前で振られるんですよ? うっとおしいったらありゃしない。
それにしても、この炭鉱二人はしたたかですね。のらりくらりと言を弄し、何だかんだで丁鈎児に酒を注いでいく。それに比べると丁鈎児は、まっすぐすぎます。適当にごまかすってことができないタイプ。だから頑なに断るか、それができなければ唯々諾々と従うしかなくなってしまうわけです。結局、彼は連続9杯飲まされます。

やがて彼はやたらと指の数の多い手から一杯のワインを渡されるのをぼんやりと感じた。殻となった身体内に残存する意識の澱が最後の力を振り絞って苦しい仕事を成し遂げたのか、分離した彼が見ている例の手がグルグルと旋回し、花弁が層を成すピンクの蓮華となった。そしてワインも層を成し、さながら特殊撮影の写真のように、深く重く安定した真紅の周囲に、ボンヤリと薄く赤い霧を生じている。これは酒ではなく日の出の太陽だ、冷たく艶やかな火の玉、情婦の心だ――まもなく彼はグラスのビールも本来は天空に掛かっていたのに今では食堂に入り込んで来たチョコレート色の丸い月とさえ考えていた。無限に膨張したザボン、無数の柔らかな花蘂(かずい)を持つ黄の球、フッサリとしたキツネの精――天井板にぶら下がった意識が冷笑の声を立て、エアコンから流れる暖気が重い障害を突き破って天井に達すると、次第に冷却されてその翼となり、翼の飾り模様はこの上なく美しかった。肉体を抜け出た彼の意識は翼を伸ばして食堂を飛翔した。

あーあ、すっかり酔っ払っちゃったようです。まず、視点が定まらない。そして、とめどなく連想が広がっていく。さらには、肉体から意識が離れて勝手に飛び回り始める。身に覚えがあるでしょ。酔ったときのぐにゃぐにゃした意識。これはつまり、確固としたものがなくなっちゃうってことでしょう。確固とした自分、確固とした現実、確固とした時間、そういったものが溶け出してぐずぐずになっていく。
それにしても、このこってりとした過剰な描写はどうでしょう。てんこ盛りの比喩に、切れ目のない文体。まさに、宴席に並べられた中華料理のようです。脂っこさに、胸ヤケしそう。このあたり、この小説の読みどころですね。消化するのに時間がかかりますが、満腹感はたっぷりあります。
そしてこの宴席に、ついに金剛鑽(チン・カンツアン)が登場します。この登場が、またしても過剰な描写に彩られています。

この耐えがたい苦痛の時に、金剛鑽副部長は全身からダイヤモンドの輝きと黄金の香気とを発しながら、春・太陽・理想・希望の如く、あの真紅の人造皮革を張り詰め優秀な防音効果を備えた食堂の大扉を押し開いたのだ。

ここまで書かれると、嘘臭いですね。手放しで褒めちぎってる。やっぱり笑うところでしょう、これは。しかし、丁鈎児は、いきなり31杯の酒を飲み干した金剛鑽に、すっかり魅せられてしまいます。そして、酔っているにも関わらず、またしても勧められるままに杯を重ねることになってしまう。ホントに腕利きの特捜検事なんでしょうか、彼は?
そんなこんなで、テーブルに主菜が運ばれてくるところで、このパートは終ります。

二人の赤いお嬢さんが金メッキの大きな盆を運んでくると、その上には黄金色の男児が異様に香ばしい香りを発しながら座っていた。

わお。もう、いきなり、例の「特別料理」の登場ですか?! もうちょっと事件にじわじわと迫っていくと思ったら、丁鈎児が酔っ払っててまだ何もしていないうちに、嬰児の丸焼きが出てきちゃうなんて…!


ということで、今日はここ(P44)まで。とても気になる終り方ですが、第2節は例の李一斗くんの手紙なので、次の章まで丁鈎児のお話はおあずけです。ああ、気になる。