『童話・そよそよ族伝説 (2)あまんじゃく』別役実 【3】


いきなりですけど、読み終えちゃいました。なので、今回はだだだっといきます。


「六 海の向うの子供・夜の底の子供」「七 猫一族」「八 葦原の海」「九 五郎森」の章をば。
ツモリ老人、アミ、モモソヒメと赤ん坊、アミの友人サト、うらひくの村の片目のクニ、めくらことばを話すはるベの村のヨナの7人は、あまんしゃぐめがいると思われる「八重沼」を目指します。
「あまんしゃぐめ」とは「あまんじゃく」を束ねている女王だとか。ちなみに、「あまんじゃく」は、精霊の一族のようなものでしょうか? 浮島の都があった頃は、夜になるとあまんじゃくたちが現われて歌を歌ったと言われています。
ということで、旅は進んでいきますが、あちこちに潜む天ノ原王朝の軍勢のため、迂回を余儀なくされ、まっすぐ八重沼にたどり着くことはできません。「猫沼」に入り込み、「葦原」を抜け、「五郎森」へと向かいます。
この「猫沼」に棲む「猫一族」のエピソードはなかなか面白い。沼に竹で編んだ「浮き屋」を浮かべ集落を作っている一族。彼らは、魚の形の舟に柩を乗せて水上で火をつけて葬儀を行います。さらに、彼らにはもっと驚くべき習慣があります。何と、「喰うために、あまんじゃくをとっている」とか。
え、食っちゃうの? 「あまんじゃく」ってのがどういうものなのか、ますますわからなくなってきますね。動物、精霊、人間…、そのどれでもありどれでもなさそうな、得体の知れなさ。
ともあれ、猫一族はアミらぬまべの者たちとは何もかもが違っている。アミたちから見れば確かに奇妙な一族でしょう。しかし、それは、相対的なものに過ぎないということを、ツモリ老人はくり返し言い聞かせます。

「このおおうみには、様々な一族が住みついている。そして、それぞれの一族は、それぞれのおおうみに住みついているんだ。我々が住みついているおおうみと、この猫一族が住みついているおおうみとは違うんだよ」

「我々から見て猫一族が気味悪いように、猫一族から見れば、我々が気味悪いんだ……」

この物語が「はっきりさせない」とか、「わからない」の周りをぐるぐるめぐっているように思えるのは、「答えがひとつではない」ということに関係があるのかもしれません。それぞれの種族にそれぞれの真実がある。それは、正しいとか間違っていると単純に割り切れるものではない。どうにもスカッとしない展開ですが、スカッとしないもんなんですよ、たいていのものごとは。
さらに老人は、「五郎森」で騒ぐ地霊たちを鎮めるためには、滅んでいった一族の身になって、彼らのことを「知ってやる」ことだと言います。歴史の中でそれぞれの種族が、それぞれの立場で真剣であったことを、その身になって思ってやらなければいけないと。

「どうしてこんなに悲しいんです……?」
ヨナが、泣きそうな声で言いました。
「そうだ、悲しいんだよ……」
ツモリ老人が、やさしくなぐさめるように言いました。
「お前さんは今、知りはじめたからだ。悲しみというのが、この何代も埋もれた地霊を知るための、ただひとつの智恵なのさ。悲しみを通じて、地霊たちはお前さんに話しかけてくるのだし、その同じ悲しみを通じて、お前さんも地霊の話に耳を傾けてやることができる」

「地霊の話に耳を傾ける」というのは、言葉にならないものに耳をすますというニュアンスでしょう。ここで言う「知ること」というのも、「明確な言葉で理解する」とは違う気がします。言葉で区切るのではなく、もっと染み込むような形で相手のことを知る。相手の「身になってやる」のです。
同じおおうみに暮らしていながら、違うおおうみに棲む様々な種族。「悲しみ」は、どんな種族にも共通のものなのかもしれません。「知ること」は「悲しいこと」…。何だか、人の存在そのものにつながるような悲しみのような気がしてます。気になるなあ、この部分。


このあと、「十 八重沼」「十一 あまんしゃぐめ」の章で、ツモリ老人一行は、八重沼にたどり着き「あまんしゃくめ」に出会います。出会ったところで、この巻はおしまい。次巻につづきます。


ということで、『童話・そよそよ族伝説 (2)あまんじゃく』読了です。さあ、次はいよいよ最終巻『浮島の都』です。