『童話・そよそよ族伝説 (1)うつぼ舟』別役実 【4】


いよいよ、クライマックスまできました。では、「十 捨場」「十一 かたしま」の章。
「捨場」とは、病人や他所者を泊める場として機能している地域のことを指すようです。第二章では、「領内にある領外」と説明されていました。これ、面白いですね。マージナルな場所というか、共同体の内部に要するにどこにも属さない場を作っているわけです。「こばんでもならない、うけとってもならない」に、これ以上ぴったりくる場所はない。うつぼ舟の行き先は、当然、この「捨場」をおいて他にはないでしょう。
そして、どうやら「夜見のかげつかい」も、そのようにすることを望んでいるようです。そればかりでなく、そもそも、本来「夜見の国」へ流されるはずのうつぼ舟の流れを変えたのは、どうやら「夜見のかげつかい」らしいということがわかってきます。でも、「夜見のかげつかい」とは何者なのか? 気になるのはそこですね。

「夜見のかげつかいは、わざいわいをもたらすのか……?」
「いや、それがわざわいなのか、しあわせなのか、誰にもわからない。ただ、私たちはそれをしなければならない。それが、約束だよ……」

「ここは葦原の中ツ原と言われて、古くは大氏が、次いで葛城が、今は天ノ原が支配をしているが、この世界の向うにはいつも夜見の国があって、時々この世界に顔を出す。何か気に入らないことがあるとちょっかいを出すのだ。だから葛城も、天ノ原も、今そのことを考えているよ。なんのためにそんなことをしたのかってね……。もちろん、私にもまだわかっていない……」

「夜見のかげつかいというのは、そう呼ばれている行者たちのことだよ。もちろん、それがどこにいて、誰がそうなのかは、誰にもわからない。街道を行く流れものの聖人の中にもそれがいると言うし、施療院島をとりしきってるきづきの行者たちの中にも、なんにんかいると言われている…」

「わからない」「わからない」「わからない」のオンパレードです。おぼろげには浮かんできますが、はっきりとした像を結びません。これでは、まさしく霧の中です。相手が何者かわからない以上、はっきりとしたことを言うのは「あぶない」んです。
ツモリ老人は、こう言います。

「私は、私自身が何ものなのか、そしてこのようなできごとの中で、どんな役割を背負わなければならないのか、まだよくわかっているとはいえない。それは、お前さんがたが、それぞれに何ものであり、何をしなければならないかを、知らないのと同様だ。ものごとは今、私たちの知らないもっと大きな世界で行われている。そこで行われていることにくらべれば、私たちなど、吹き荒れる嵐の中で、あちらにそよぎこちらにそよぎしている葦の葉のようなものだ。いいかね、今はまだ、私たち自身がどうすべきかなどということを考える時期ではない。この大きな世界で行われていることの意味を知り、それに従うことができるだけだ……」

もう、この人、ずーっと「わからない」しか言ってません。何とも困った話です。自分たちをとりまく世界のことがわからない。その中で、そよそよそよぐだけのことしかできない。「そよそよ族」というタイトルはここからきているんでしょう。
ファンタジーをあまり読まないのでよくわかりませんが、ファンタジーの主人公は、たいていいつも何かの目的を持って行動している印象があります。何かを探すためとか、誰かを救うために旅に出る、探求の物語。でも、この作品では、ツモリ老人もアミも、「何をすればいいのかわからない」という状況にあります。これは、ちょっと珍しいんじゃないでしょうか? そよそよそよぎ、口ごもり、できることは、「知ろうとすること」だけ。
一見、それは絶望的なことに思えます。でも、本当にそうでしょうか? 「わからない」と言うことは、必要なんだと思います。何でもかんでも、すぐ、何らかの答えを選べと迫られるような、昨今の世の中を見ていると、僕は、「ちょっとぐらい口ごもらせてくれよ」、という気になります。
簡単に出る答えは、「あぶない」んじゃないか? 「わからない」いうところから始めないと、「知る」ことはできないんじゃないか?


この後、「十二 あまんじゃく」「十三 黒いいくさ舟」「十四 武将アキト」と章が続き、ツモリ老人とアミはひとつの選択をします。でも、それは結論ではなく、ある種、「保留」みたいなことじゃないかと僕には思えてならない。そして、物語はもやーっとしたまま、2巻目へ続きます。


ということで、『童話・そよそよ族伝説 (1)うつぼ舟』読了です。2巻目のタイトルは、『あまんじゃく』。これまた、とらえどころがなさそうですが…。