『童話・そよそよ族伝説 (1)うつぼ舟』別役実 【3】


「六 施療院島」「七 ひきのうんばあ」の章。
はっきりとした説明はありませんが、「めくらことば」とは、どうやらテレパシーみたいなもののようです。ひきのうんばあは、島の外にいるアミにめくらことばで語りかけてきます。
ひきのうんばあによれば、うつぼ舟に乗っていた女は、現王朝である天ノ原王朝の者であり、赤ん坊の父親は2代前の王朝である大氏王朝の者だとのこと。何かややこしそうですが、まあうつぼ舟がやっかいなモノであることは間違いない。そして、ひきのうんばあは、さらに「うつぼぶねは、こばんでもならない、うけとってもならない」と語ります。謎めいてます。ほとんど禅問答。結局、うつぼ舟をどうすればいいのかは、さっぱりわからない。
わからないまま、3人は、ひきのうんばあに促され大沼への帰路につきます。ちなみに、うんばあは、一度も姿を現しません。めくらことばで口伝えに語りかけてくるだけです。

「ひきのうんばあは、うつぼ舟が流されたことのほかに、もっと大きな、もっと重大ななことをなにか、知ってるんだ……。それを、私たちに知らせたくないんだよ」
「なぜです……?」
「それを知らせたら、施療院島があぶなくなるのかもしれない…」

ツモリ老人とアミの帰路での会話です。ここでもまた、前回出てきた「あぶないから」という理由が挙げられています。霧の中で名乗りを上げちゃいけないっていう、アレですね。
引用していて気づいたんですが、この物語では、会話に、「……」がやたらと多用されています。つまり、ここの人々は皆、誰もがつぶやくように話し、口ごもっている。語っていることよりも、語らないことのほうが多いんじゃないかと思えるくらい。これはまた、会話でありながら、自分に言い聞かせてるようでもあります。要するに、何かを伝えるための言葉としては不完全なんですよ。
言葉は宙に放り出され、消えていく。ときに、声にならない「めくらことば」で、そっと語りかける。何だか、もやもやしますね。


「八 葛城のからす使い」「九 夜見のかげつかい」の章にいきます。

「明神岬の智恵の洞窟で、三百年、私は眠っていた……」
ツモリ老人が、舳先で向うをむいたまま、誰に言うともなく言いました。
「そこであらゆるものを見てきたにもかかわらず、私は今、なにをどうしていいのか、わからない……。いや、もしかしたらわかっているのかもしれないのだが……、どうしてもそれがはっきりとした考えにならない……」
アミには、その最後の言葉が、ひどく悲しく、そして痛々しく聞こえました。

「あんたがわからなけりゃ、こっちはもっとわからないよ」と、言いたくなります。どうも、この物語は、「はっきりさせること」をできるだけ迂回しようとしているようです。難しいことは書いていないのに、どうにもとらえどころがないのは、きっとそのせい。物語自体が、「こばんでもならない、うけとってもならない」という両義性の間をゆらゆらと漂っています。
おおぬまに戻った3人は、葛城王朝と天ノ原王朝の者が、それぞれ大沼に入り込んできていることを知らされます。うつぼ舟をめぐって、過去の王朝と現王朝の勢力争いが繰り広げられそうな気配です。さらには、「うらひく」という村の人々も大沼にやってきます。さあ、ますますややこしくなってきました。
うらひくの村長・片目のクニは、「夜見のかげつかい」に言われてここへやって来たと言います。

「夜見のかげつかいは、私の名を言ったのかね……?」
ツモリ老人が、重苦しい声で聞きました。
「ツモリ老人に会えと言われた。もしあなたが、そのツモリ老人なら……」
片目のクニは、その最後の言葉を、ひどく用心深く使いました。そのせいでしょうか、周囲の人々にかすかな動揺があって、老人もそのことに気付いたのでしょう。自分自身を確かめるように、ひとことひとこと、ていねいに話しました。
「私は、ツモリ老人と呼ばれているし、私自身、そう思っている。しかし、いいかね、その夜見のかげつかいの言ったツモリ老人かどうかは、私にもわからない。なぜなら、手のものを連れてやってきたお前さんに、どう返事をしていいのか、私にもわからないからだ……」

「夜見」は、「黄泉」のことでしょうか? でもって、何者?
それにしても、最初は、あれほど知恵者に思えたツモリ老人が、気付けば、二言目には「わからない」をくり返すばかりになっています。かつて「お前さんたちは誰なんだ?」と聞いていた老人が、ここでは「自分がツモリ老人かどうかわからない」と言っているのです。
ますます、物事はあいまいになり、輪郭がぼやけていきます。ここは「ぬまべ」です。足下が揺らいでいる。ぐらぐらします。


ということで、今日はここ(P148)まで。次は、最後まで読めると思います。