『三つの小さな王国』スティーヴン・ミルハウザー 【8】

「展覧会のカタログ」、後半です。
作品番号[14]「夜想」(一八四〇年)

ここではすべてが鬱々と重苦しく、閉じ込められたような、内にこもった不吉な息苦しさに包まれている。影のような、何とも名状しがたい生き物が黒い煙のごとく夜のなかに浮かび、暗い風景にのしかかり、その重みで風景を縮こまらせている。絵の下縁付近に、黒い線となって広がる丘を据えたことで、息苦しい不吉な雰囲気が逆にいっそう強まっている。

エドマンド・ムーラッシュとその妹エリザベス、ウィリアム・ピニーとその妹ソフィア、二つの兄妹をめぐる関係は、愛憎が縺れ合い、やがて息苦しいまでの四角形を形作ります。そしてそれにつれて、ムーラッシュの絵画は、徐々に混沌とした不気味な印象を与えるものになっていきます。

重要なのはむしろ、茶や黒をまじえた、せわしげな短い筆づかいで描かれたこの館――溶けかかり、消えかかった、幻のような館――が、暗い沼にも映っているという点ではあるまいか。そのことによって、何かが崩壊するというよりむしろ、発熱が生む幻覚がじわじわ溶けいてくような印象を与えるからである。

暗くなりかけた草原に、さざ波のように歪んで伸びるそれら細長い影には、どこか不吉な雰囲気が漂っている。二つの頭はたがいに寄りあい、何か秘密でも打ち明けあっているように見える。肩から下は、二つの影がたがいに相手のなかに流れ込んでいる。

これらは、作品番号[15]「アッシャー家」(一八四〇年)と、作品番号[16]「エリザベスとソフィア」の描写。すべてが溶け、流れ込み、生き物のようにうねっていますね。こうした、輪郭のはっきりしない絵画の描写に比べ、ムーラッシュの境涯に関する記述は、ますます詳細になっていきます。
でも何故、一解説者である語り手に、ここまで詳しく彼の心理や取り巻く状況がわかるんでしょう? 実は、エリザベスは日記をつけているんですね。そこに、ムーラッシュの当時の様子が細かく書かれている。それをもとに、語り手は作品を読み解いているようです。そのせいか、僕には、あたかも「描かれたもの」と「書かれたもの」が、共に影響し合ってるかのように思えてきます。作品の中に現実が流れ込み、現実に作品が溶け出していく。そう、ここでも、境界は揺らいでいます。
作品番号[21]「死の舞踏」(一九四三?‐四五年)あたりからは、もう怒濤の展開です。息が詰まるような緊張感の中、ムーラッシュはいくつかの作品を並行して描いていく。1944年のエリザベスの日記には、こんなやりとりが記されています。

エリザベス 私、何だか幽霊屋敷に住んでいるみたいな気がしてきたわ!
エドマンド (肩をすくめて)別に新しいことじゃないさ。絵画というのはみんな幽霊だよ。

このあと、ムーラッシュがどんな絵を描くのか、そして彼の運命はどうなってしまうのか。それはここには書きません。この会話の2年後、1946年がムーラッシュの没年です。


「劇中劇」「小説内小説」というものがありますが、これは、「小説内絵画」ですね。カタログという形式を借りてるわけだから、「小説=カタログ内絵画」でもあります。しかも、そのカタログの中の記述は、日記や書簡や批評で埋め尽くされている。構造は幾重にも入れ子になっています。枠だらけ。絵画のキャンバスもまた枠であることを考えると、ムーラッシュは絵画に囚われてしまったんだなあという気がしてなりません。
ということで、「展覧会のカタログ」、読了です。