『三つの小さな王国』スティーヴン・ミルハウザー 【7】

では、三つ目の王国、「展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(一八一〇‐四六)の芸術」にいきたいと思います。
これは、タイトル通り、エドマンド・ムーラッシュというの画家の展覧会カタログ、という形式の小説。もちろん、ミルハウザーが作りだした、架空の画家の架空の作品です。誰かモデルになった人物がいるのかもしれませんが、美術史に疎いんでわかりません。どうなのかな?
この小説では、制作順にムーラッシュの作品が解説されていきますが、タイトルで既に彼の没年が明かされています。なので、絵画をたどりながら徐々に死へと向かっていくんだろうなということを、予感させる作りになっている。
今、うっかり「絵画をたどりながら」と書いちゃいましたが、これは小説なので彼の絵を見ることはできません。画題や技法、描写の解説から想像するしかない。これが、この小説の読みどころのひとつ。また、それと並行して、その絵を描いたときのムーラッシュの境遇も解説されます。そこから、彼の生涯が見えてくるという仕掛けです。
では、順に見ていきます。
ムーラッシュ独特のタッチが最初に現われたのは、おそらく作品番号[3]の「クレスペル顧問官」(一八三五年)という作品でしょう。

ムーラッシュは、この初期作品においてすでに、事物の輪郭を溶解させ、線による物の固有性を曖昧にし、作品全体に、あたかもカンバスの内側から噴出してくるような活力を注ぎ込んでいるのである。

こうした技法は、作品番号[5]の「夢見るエリザベス」(一九三六年)で、完成の域に達します。

夢を見ているエリザベスの、ほとんどそれと判別しがたい、透けて溶けかかった顔が画面全体に広がり、透明な髪は夜空に流れ込み、目は紫がかった黒い筋と化し、むき出しの腕はまばゆい月のなかに溶け出している。夜それ自体が、夢によって拡散した乙女に影響されて、明るい暗さのなか、暗い明るさのなかに溶け込みかけているように見える。世界と、夢見る者とが、混じりあい、溶けあう。にもかかわらず、この夢の世界には、柔らかさもなければ優しさもなく、夢幻的な雰囲気もない。あたかも夜が黒い炎でできているかのように、驚くばかりのエネルギーがそこにはみなぎっているのである。

とにかく「溶け」まくっています。人物とそれ以外の境界はひたすら曖昧です。でもこれ、どんな絵なんでしょう? 書かれていることはわかるんですが、イメージしようとするとするっと逃げていく。どうにもつかみどころがない感じです。「J・フランクリン・ペイン〜」のアニメーション同様、これも小説でしか描けない絵、なんじゃないかな。
ちなみに、このエリザベスは、エドマンド・ムーラッシュの妹。エドマンドは、ニューヨーク州の田舎に山荘を借り、妹と二人で暮らすんですが、その山荘は、同じく「夢見るエリザベス」の解説で、こんな風に描写されています。

寒さの訪れで、納屋から母屋に移ることを余儀なくされたムーラッシュは、エリザベスの助けを借りて二階の居間をアトリエに改造し、居間にあった家具の大半を台所に移動した。母屋の一階は広々とした台所と、エリザベスの寝室の二部屋に分かれ、裏手には小部屋がついていて洗濯場に使っていた。二階は前面に広い部屋が一つ(ムーラッシュのアトリエ、元来は居間)、奥にも二部屋あって、一つはムーラッシュの寝室に、もう一つは物置兼客用寝室に使われた。一九三六年における頻繁な訪問者であったウィリアム・ピニーが残した、模様替え成った山荘の様子を生き生きと伝える文章によれば(一〇三六年九月八日、妹宛の書簡)、客をもてなす部屋でもあった台所には、肘掛け椅子、書き物机、真ん中の凹みかけたソファが置かれ、片隅の古い撹乳器にはカンバスの山が立てかけられていたという。

絵画における模糊とした印象に比べ、ムーラッシュの境遇を解説した部分は非常に具体的です。絵画的と言ってもいい。このコントラストは、ちょっと面白いですね。文章の中でしか存在しないような絵画と、絵画になりそうな文章。図と地が反転したような感覚があります。こうした感覚は、この後に登場する絵の解説でもあちこちに見られます。
ちなみに、ここに出てくるウィリアム・ピニーは、ムーラッシュの友人です。彼は、秘かにエリザベスに思いを寄せ、やがてムーラッシュの山荘から少し離れた湖の向こう岸に山荘を建てることになる。そして、妹のソフィアとともに、しばしばムーラッシュのもとを訪れます。湖を挟んだ二つの山荘に暮らす二組の兄妹。まるで、湖に映った鏡像みたいです。
しかし、ウィリアムがエリザベスに結婚を申し込んだことにより、この微妙な四角形のバランスは破られることになります。エリザベスは、兄に対する献身的な愛のため、その申し出を断ってしまう。「私がいなくなったら、お兄様はどうなってしまうのでしょう」みたいなことのようです。兄の芸術の最もよき理解者である妹。しかし、この閉じた兄妹関係は、何だか悲劇の予感がします。
作品番号[13]の「月光」(一八三九年)の解説です。

この絵のなかに、激しく揺れる心を忘れ、この上ない静謐に身を寄せようとするムーラッシュの気持ちを読み取ることも可能であろう。二組の兄妹が、魔法のかかった湖をはさんで、毎晩たがいに訪問しあった初夏の日々に彼が思いをはせたことは想像に難くない。(中略)四人の友情はこの後も七年間続くが、その夏の無垢な安らかさを取り戻すことは二度となかった。

徐々に不穏な空気が立ちこめてきましたが、今日はここ(P230)まで。次は、一気にラストまで読んじゃうつもり。